新年そうそうになんなのだが、
 いつものように脈略やオチの見通しを一切たてずに、行き当たりばったりに書いていく所存。


 年末。
 『サルバドールの朝』というDVDをレンタルした。






 舞台は独裁政権下のスペイン。
 反政府活動という方便(?)のもと、その資金集めのために強盗を繰り返した実在の青年のハナシであるという。
 予告篇の抑えた色彩と、
 それに加えて娯楽でお勉強ができるかも、というはしたない下心でチョイスした闇生だったのだが。
 うん。
 まず結論から言おうか。
 と永ちゃんぶって言わせて貰えばずばり、退屈。
 ひりひりするほどのシリアス感を期待していたのだが、連中に革命への戦略などまるでなく。
 てか稚拙で。
 乱暴で。
 とどのつまりが、がさつで。
 しかしそれは若さゆえのことに違いないと。
 傷つきながらものちのち成長してくるのだきっと、と好意的にとらえていたのだが、さながらそんな中だるみへの防止策よろしく開始1時間でおっぱいの登場とは。
 はい、おっぱいですよ。
 と差し出されれば、
 ははん。おっぱいですね、と拝むほかない。
 なむなむ。
 その女が主人公の青年にマリファナを教え、フリーセックスを伝授して、物価の安い途上国で遊び暮らすことに憧れてみせるという、ひじょうに解りやすいことになっていた。
 ここへきてなんか安っぽいハリウッド映画的なことになってしまうのだな。
 つまりが、マリファナおっぱい姐さんは独裁に対峙する『自由』の象徴でござると。
 なんとまあ明快なおっぱいなことか。
 だもんで、飽きた。


 いや、歳のせいかもしれない。


 NHK坂の上の雲』。
 原作者が頑なに拒んでいた映像化を、その死後になってやらかしちゃった無粋にはふれない。
 やっちゃった、というやつね。
 映像化はまかりならん。という司馬の言葉を、生前彼と近しくしていた半藤一利が証言した番組は、何を隠そう教育テレビなのであーる。
 保守サイドがさんざん突っ込んでいる原作の不備やら、執筆後に発見された新史料による目からウロコの新事実やらも、際限がないのでここでは触れない。
 その手の専門書を読んで各自で補って下さい。
 でもね、
 正岡子規の死を、あれだけもったいぶった演出にするならば、当然その功績を紹介しない手はないだろうに。
 少なくともそれへの具体的な言及無くしてドラマ的な感動はない、と言ってしまうよ。
 いわずもがな、原作は長大だ。
 であるからして、そのすべてをあれっぽっちの時間に押し込めろとはさすがに言わぬ。
 また、何が何でも原作に忠実にという考えも持たぬわい。
 んが、
 仮にも司馬の名を看板にしている以上は、その誠意くらいは表明すべきであると考えるのだが。
 ましてや相手は正岡子規である。
 そのへんに転がっているなんの変哲もない男の死ではないはずで。
 その功績を、世界のナベケンに冒頭でナレーションさせただけでおしまいではあんまりではないのか。
 虚弱がゆえに従軍できないことに苛立ち、おたおたと焦燥する様を描いてこそ彼だろうし。
 それがひとつの愛嬌でもあったろうし。
 ゆえに人は慕い、
 ひるがえって己が果たすべき使命を強烈に意識したのだろうし。
 であるならばだ、
 その使命という命の燃やしどこが具体化されなくてはならない。
 観客は慣れ親しんだキャラクターが苦しんで死んだから感動するのではないのだ。
 なにをしたか。
 残したか。
 彼の場合なら、俳句であり。
 その改革である。
 写生にこそ真実があるとした、それである。
 神のように崇め奉られたあの芭蕉の句でさえ、子規から見れば写生に徹し切れていない駄作があるとして、その膨大な作品をいわば仕分けしたのだ。
 そうする一方で、
 それまで天上にあった芸術を、日常の写実のなかに見出し、庶民のものとした。
 彼の病床わずか六尺と、
 その外側の広大な世間を生きる庶民とを、新聞を通じてつなげたのであーる。
 ……とは、司馬の受け売りですからね。
 その辺の演出は、具体的に句を紹介することで、ことたりると思う。
 子規の友人たちにむけての熱弁によるのもいいだろうし。
 世界のナベケンのナレーションと実例をあげるだけでも、彼がしでかしたでかさを匂わせることはできたはず。
 ついでに言えば、ナベケン。感情こめすぎ。
 めっ。
 ナレーションは裏方であって、主役であってはならないのよ。
 名ナレーターはみな平坦かつ淡々として、その言葉を胸に刻み込む。






 ☾☀闇生☆☽