前にも書いたが、
ロックバンドというものは露骨にプチ社会なわけで、有体に云えば国の縮図と見て取れるわけ。
黎明期にはその目標が抽象的であるがゆえに、まとまりやすい。
革命だっ。
売れるぞ。
稼ぐぞ。
もてちゃうぞ。
言い曲いっぱい作るぞ。
たくさんの人を感動させるぞ。
武道館を満員にするぞ。
仕合わせになるぞ。するぞっ。
たわいもないが、それがゆえに各々がワタクシゴトを一旦ひっこめるから、一蓮托生の連帯を生みやすいと。
して、それを起爆剤として勃興するわけ。
だからのちに成功するバンドの一作目というものは、往々にして荒々しく、かつ強固で抑制しがたい勢いがあるものなのだが、それは自らをいわばマイノリティ側に置いた抗いの気風によるものであり。のちに再現しようと思ってできるものではないのだ。
ましてやファンが後年にその再現を望むのは、残酷とさえいえる。
明治の元勲たちに、またちょんまげで刀を持たせて尊王攘夷の再現を強いるの?
それ、つらいわあ。
ともかく、
いったん成功してしまうと、……というのは社会が認める、つまり公認されるということであるからして、 その瞬間から活動は私的なものではなくなり、公的な性質が強まると。
なにより多かれ少なかれ経済活動に組み込まれちゃう。
ふところホクホク。
ゆとりが生まれ。その分だけ目標がより具体的になり。くわえてこれまで二の次にしていたワタクシゴトや、個人の価値観がむくむくっと鎌首をもたげはじめる。
むろん、プライベートあっての公的活動であるわけで。
裏返せば、公的活動あっての日常生活でもあると。
して、その狭間で葛藤してこそ個人だもの。あたしだものさ。それぞれはそれぞれなのだから、と摩擦が生まれて当然なのである。
ほかでもない、自由をもっとも愛するロックであればこそ、バンドという一種の束縛と衝突することになることだろう。
でも、バンドあってこそ保たれている今のあたしでもあるしなあ、と。
ああああいらいらするっ。
あたし、いらいらするっ♪
と今どきいとうあさこもどうなんだと想いつつ、そこで確信するのだな。
お手手つないで仲好しこよしで作ったアルバムが、必ずしも傑作にはなりえないということを。
ファンはそんな平和を求めるし。ばかりか、時として仲良くつくったそうだからという理由から、それを傑作と思いたがる。
けど、実際はそうはいかない。
リーダーの独裁が傑作を生むケースだって珍しくはないし。
一触即発のケンカ越しのセッションが、歴史に残る名作になったりするのだ。
それはYMOの『BGM』やビートルズの後期を持ち出すまでもなく、例は山ほどある。
というわけで、メタリカ。
唐突にメタリカだ。
ドキュメンタリー映画『メタリカ/真実の瞬間』を観た。
白状すれば、メンバーの名前ひとつ知らない。
アルバムも持っていない。
知っている曲もない。
けど、とある分野で頂点を極めた人たちのドキュメンタリーという、ただそれだけの理由と、上述した観点から興味をもったわけ。
だもんで、ファンからすればあたしなんざ噴飯ものの観賞者だろう。
鼻から噴いちゃうだろう。
けどね、
すげえ面白かったよ。
二度観ちゃった。
ビートルズのレコーディング・ドキュメンタリー『レット・イット・ビー』を連想した。
仕切り屋ラーズは、あの映画での悪役ポールだ。
カークを相手にギターソロ不要論をはるあたりは、同じギターソロをめぐってのポールとジョージとのやり取りを思い出す。
プライベートに重点を置き始めたジョンと、家族との時間を優先するジェームズ。
何も変わっちゃいない。
ははん。
人と人が真摯に向き合う創作の現場とは、そういうものなのだな。
あたしゃ決して打ち込み否定派ではない。
んが、
こういう対人関係の軋轢というものは、時代とともに形が変わってきているよね。たぶん。
いや絶対。
生バンドなら、相変わらずだろうけど。
データのやりとりで済んじゃうから、顔を合わせる必要がないもの。
といってそれが傑作になるかどうかは、また別の話かな。
生で、
それも真っ向から喧嘩をするというのもまた、貴重なイニシエーションかもなあ。
☾☀闇生☆☽
追伸。
しかしまあ、なんという邦題のセンスの欠如。
三伸。
新加入のベーシストの選考過程と、
その後の関係の築き方を、もちょっと詳しく見たかった。
よしみの深め方ね。
その第一歩として、
メンバー側の期待と歓迎を形にしようというやり取りが記録されていて。新メンバーとの取り分の割合を決めるミーティングは、ため息もの。
たとえばロン・ウッドでさえ、近年まで契約上はオリジナルメンバーたちと対等な契約ではなかったと聞くし。
脱退前の数年のマイケル・アンソニーも、法的にはセッション・ベーシストという扱い。
良し悪しは別として、シビアにビジネスですからね。あちらさんは。