壁の言の葉

unlucky hero your key

 何を隠そうドッキリが、嫌いだ。
 たとえば唐突にパイを顔面に投げつけられる、とする。
 被害者が茫然とするのは当然だし。
 つかのま困惑するだろうし、
 やがて憤るのも当たり前。
 んなこた分かり切っている。
 すると、いわゆる仕掛け人とやらが顔を出し、
 ぺろりと舌を出す態で言うことにゃ、こうだ。


 ドッキリでしたあ。


 おいおいおい。
 なんなんだと。
 だからどうしたんだと。
 んで、どうしろというんだと。
 ドッキリだろうがなんだろうが、パイが顔面を直撃したことになんら変わりが無いわけで。
 なのに「ドッキリでしたあ」が何ゆえ免罪符となるのか。
 ばかりか、その瞬間の映像を滑稽な音楽とともにリプレイして、連中は繰り返し嗤うと。
 だもんで被害者側も、仕方なく己を嗤うと。
 そこに嗤う多数派と、嗤われる少数派の力学が露わになってくる。
 と同時に、思う。
 こんなんで番組になったりするのだなあ。
 時代とともにパイは形を変え、
 色仕掛けなり、
 友人の訃報なり、
 目上の逆上なり、
 事故なりになっていく。
 となるともうあれだ、
 殴ろうが、
 脅そうが、
 騙そうが、
 おどかそうが、
 ぶっ壊そうが、
 ドッキリでしたあ、とやっとけばええんかい。
 ――と、
 恐らくは疑問を抱いたのに違いない。
 って誰が。
 松本人志がだ。
 などとえらそーに確信するのには、訳がある。
 ダウンタウンがときにこのドッキリのパロディをやるからなのであーる。
 古くは『ごっつ〜』で物議をかもした「東野さんの頭ってかた焼きそばみたいですよね」があった。
 その言葉を合図に、隠れていたメンバーが東野幸治を抑え込み、頭部へ執拗にかた焼きそばをぶっかけるという企画であった。
 カメラは丸一日東野に密着し、盗撮し続けるという趣向で。
 楽屋で、
 あるいはタクシーの中で、
 ついには宿泊先のホテルで風呂上りに、東野は繰り返し押し倒され、問答無用にかた焼きそばを浴びせられたのだった。
 んでその都度、
「ドッキリでしたあ」
 カメラあっち、
 カメラあっち、
 はいポーズ。大成功〜!
 で片付けられると。
 なんせ、はなから逃げようがないのだもの。
 というか逃がさないのだから東野の「ドッキリちゃうやん」の声もむなしさったらないわけで。
 んが、
 それがまたドッキリ企画というものの根本へのツッコミになっているという、二重構造であったりするわけ。
 近年では、
 ココリコの遠藤がハリウッド映画のオーディションを受ける「ラストホホホイ(?)」が記憶に新しい。
 この、やらせのパロディを不条理に仕上げるという、
 まあ言ってみりゃ斜め上をひねってかすめて胸元にストンと落ちるという複雑な変化球は、その複雑さゆえに、かえって単なるすっぽ抜けにしか見られず、結果、視聴者を置いてけぼりにしやがったのであーる。
 ううむ、
 やりよるわいと。
 このおっさんたち、真剣に遊びよるわいと。
 などと笑いつつ、感心したりなんかして。
 けど、こんなアンチとしてのパロディは別として、
 やっぱりあれだ、
 おおもとのドッキリが、あたしゃ笑えないのだな。
 うっかりウケてしまっても顔の半分だけですかしている始末だもの。
 たとえ芸人相手のお約束ごととしても、なんかしっくりいかないのであって。
 わらっている自分は、はたして笑っているのか。
 嗤っているのか。
 本当は嗤っている自分こそが、制作者側に嗤われているのではあるまいか。
 どうやらそこのところに居心地の悪さがあるようなのだ。
 企画にひねりやら芸が感じられるとまだしも救われるのだが、
 まず、ない。
 ましてや先述したパイ・テロや、
 どこぞのお国で流行っている金蹴りのようなのだと、なんだかなあとなっとしまう。
 たとえば、
 さんざん空爆やらかして、
 捕虜虐待して、
 フセイン処刑して、
 大量破壊兵器が無いとわかるや、
 ブッシュが、
「ドッキリでしたあ」
 と看板持って現れれば、そりゃあ黒々としたものをかますことはできるさ。
 日本に向けて発射準備されるノドンだかテポドンの弾頭に『ドッキリ』のプラカードが張ってあるとかさ。
 やるならそれくらいやれよ。
 けど、そんな覚悟もない。
 

 ゲバゲバ。


 己を棚に上げ、
 嗤う多数派にすり寄って、
 いけしゃあしゃあと異なるものを嗤って鼻毛を伸ばしている。
 みなさーん、ここにアホがおりますよお、とな。
 そこに民主主義の、
 して自由の、
 一側面としての醜さがあるというわけ。




 ルームメイトの性行為を隠し撮り、
 ネットに晒し、
 被害者自殺。




 嗤い、
 という程度の低さで同調するとき、人はロクなことをしない。
 断言する。
 嗤いが、笑いに転化するのは双方に信頼関係があってのこと。
 サシであってこそだ。
 なのにその絆が未発達なままに、
 周囲に知らしめてまで求めるわらいなんてのは、ガス抜きとしての表現でもなんでもない。
 ましてや、芸もない。
 微塵もない。
 自分と違う、というただそれだけで、人は人を嫌いになれるものなのだ。
 違うものを食べる。
 聴く。
 見る。
 着る。
 使う。
 付き合う。
 けど、違いを違いとして受け入れたまま好きでいるには、訓練が不可欠だろう。
 心がけというのか。
 もっといえば「嫌い」を「嫌い」のままに付き合っていくのもまた、社会だ。
 なんであれ躾けのない野放しにはできない芸当ではないのか。



 それを彼らは自由と呼び、
 常識はそれをヒトで無しといふのだよ。




 ☾☀闇生☆☽