野田秀樹作・演出
NODA・MAP第15回公演
『ザ・キャラクター』
東京芸術劇場 中ホールにて
たとえばラブレター。
……だなんてのは、どうすか。
そんな言葉は、もはや死語ですか。このケータイやら、ネットやらに覆い尽くされた世界観の真っ只中では。
ともかく、
そこにしたためられる肉筆の言の葉に、是が非でも読み手を酔わせんとする肉声の情念が込められいることは、当然のこととして。
であるならば、
同時に書き手は己の言葉に酔いつつ、それをつむぎだしているはずではないのか。
どうよ?
書き手の酩酊なくして、どうして読み手がそれに心おきなく墜ちられようかと。
堕ちざまに自ら酔い、
それを観て言の葉のつむぎ手がまた酔って、と。
これがもし恋愛関係ではなく、特定の集団のなかに発生すればどうか。
めくるめくナルシズムの相乗効果はとめどもなく世間を、生活感を、して現実さえをも遠く遊離させる。
孤島。
しかし、どれだけ遊離したとて、そこは紛れもない現実の真っ只中であり……。
舞台は、横町のありふれた書道教室。
その集団に酩酊はおこった。
そこの家元が、漢字の解釈のためにつむぎだした言の葉に集団が酔い、酔わせて酔って泥酔するうちに、世間から遊離していくという……。
酩酊は妄想を生み、
妄想は支持者によって誇大化して、
いつしかギリシア神話の神々に自らを投影するうちに、はてどちらが神でどちらが俗物なのか。
どちらが古代で、どちらが現代なのか。
判然としなくなり、気づけば集団はカルト化していた。
世間からは特異なもの。つまりが敵と見なされて。
そもそもが果ての無い自己肯定による酩酊であるからして、集団はいまさら自己否定やら反省には向かわない。
敵と見なした世間を、抹消にかかる。
いわずもがな、いまだ記憶に新しいオウムの一連の事件を、野田は露骨なまでに重ねて描いている。
これまでも、かつての学生運動からあさま山荘に至る一連の集団の酩酊を、
その暴走を、
野田はこれまで何度も自作に重ねてきているわけで。
だから今作でのオウムに関しても、その点では同様である。
しかしその集団をとりまく世間、
あるいは大衆の、
その軽薄さへの批判的な視点は、年々強調されてきて。
今作では台詞にはないものの、扱いとして、とげとげしいまでであった。
さて、
出だしから言葉遊びの連射砲。
漢字の解釈によるそれが矢継ぎ早に繰り出されたのは、驚きである。
というのも、
もともと言葉遊びは野田のもっとも得意とするところであるのは、言うまでもない。
んが、
ここ数年、英国進出以降は特に、いずれ海外公演をしようという頭があるからなのか、目立たなくなっていた。
それが今回は漢字の解釈に終始する。
しかもオウムである。
外国語に翻訳しにくいったらないだろう。
だもんで新作には違いないが、着想を得たのは、かなり前だったのではないのかと思う。
それくらい、前半のリズムは圧倒的で。
神話との行き来も含めて、夢の遊民社時代を連想させる。
とどのつまりが、若かった。
けれど、
後半、集団がカルト化し、露骨なまでにオウムの姿が現われてくると、つらくなる。
やたら重い。
むろん、軽薄には扱えない題材なのだが。
だからこそ深刻で、
その時間が長く感じられた。
そういう意味で、観劇後に痛快なカタルシスは無い。
というか、あってはならないわけで。
安直な涙にもならない。
いや、してやるものかという終わり方をする。
劇場を出ると、
池袋の夜空に鳴り響くサイレン。
しばらくはサイレンの音を聞くたびに、この芝居と、あの痛ましい事件を連想せずにはいられなくなるだろう。
物語は、ぬかりなく日常にバトンタッチされているのだ。
してやられたぜ、
野田さんよ。
☾☀闇生☆☽
追伸。
橋爪功演じるクロノス。
いいねえ。橋爪さん。
物忘れのひどい役どころが、特に後半で、束の間の息抜きになっていた。
アポロンを演じたチョウソンハ。
声といい、動きといい、印象に残る。
ヘルメスの藤井隆。
もっとはじけても良かったのでは?
しかしこの芝居では、いわゆるその他大勢のみなさん。
アンサンブルに、拍手を送りたい。
結構、一人ひとりの動き、表情に魅入ってしまいました。
予備知識として、
ギリシア神話をさらっていくと、楽しめるはず。
手っ取り早いのは、
阿刀田高の『ギリシア神話を知っていますか』新潮文庫。
この芝居に出てくる逸話の多くが、わかりやすく紹介されています。