ギレルモ・デル・トロ監督作『パンズ・ラビリンス』DVDにて
物語は1944年。
フランコによる独裁政権下のスペインが舞台。
各地でゲリラが蜂起して、内戦は激化の一途をたどっている。
主人公はその内戦で父親をなくした少女オフェーリア。
その母は寂しさから再婚をするが、相手はフランコ政権の熱烈な支持者であり、人を人とも思わない冷酷非道の大尉であった。
よってその家庭に愛は無く。
大尉はその妻を、単なる嫡男を産ませる道具としか見なしていない。
むろん前夫の子オフェーリアなど、眼中になく。
ばかりか、あきらかに目障りな邪魔ものとして扱うのだった。
そんな過酷な現実の息苦しさからか、
あるいは孤独に差し込む月の光の魔力なのか、
(友だちがどころか、他に子どもが一人もいない)
彼女の孤独な妄想は、いつしか夜な夜な別世界へと旅立つほどにまでなるのだが…。
たとえばひとりの少女が、
ひょんなことから別世界へと紛れ込み、
そこでいくつかの試練を経たのちに現実に帰還するという。そういう意味において、すぐにでも『不思議の国のアリス』を連想するだろうし。それが転居先の森と遺跡を発端とすることから『千と千尋の神隠し』を連想する人もいるだろう。
けれども、
この両者の場合、非現実、もしくはそれを支える妄想の根拠については、あまり語られない。
そういう点で本作での妄想は、少女の過酷なる現実からの逃避としての作用を果たしており。
それはつまり、
同じような経緯で『音楽』に、苦痛を和らげるモルヒネ的作用を渇望した『ダンサー・イン・ザ・ダーク』的であると言えるかもしれない。
言えるだろう。
大人の女性であったセルマのそれとは対照的で、オフェーリアの逃避は無自覚ではあったはずだが。
さて、
印象として、やはり期待し過ぎていたかもしれない。
大人向けのダーク・ファンタジーで、この設定である。
ようするにあたくし的にツボなのだが。
よって以下は『欲を言えば』という前提で、書かせていただく。
留意されたし。
独裁者というこの映画内での悪が、あまりにも明確な悪でありすぎたのではなかったか。
大尉がチラリと見せた自殺願望らしき所業から、その人物の深みを期待していたのだが。
これではインディージョーンズに登場するナチスと、あまり変わりがない。
つまりがショッカー的かと。
して、
物語はそんな現実世界と幻想世界が交互に描かれる趣向なのだが、肝心な幻想世界側の比率が物足りなかった。
もっと小まめに行き来するか、
あるいは、それをさして『地底の王国』とまでいうのだから、短くともその広大と深遠を垣間見させる映像的くだりがほしいところである。
晩餐の部屋も、あっけないし。
(好み的には、暗く気が遠くなるほど長い廊下の果てにあの部屋がほしいところ。それでこそ子供の時間感覚かと。)
玉座の間も、さむい。
地底王国の住人たちが、あれっぽっちではあまりに心もとないではないか。
マンドラゴラの奇跡。
あれは、大人がいる空間では擬人化されない。とした方がいいのでは。
加えて、幻想はつねに闇とともに訪れるというように、法則性を堅守したほうが良い。絶対に。
焼かれてもだえるマンドラゴラの表現は、とどのつまりが蛇足で。
あそこでは、
妊娠中の母の苦しみをよそに、
スルメのように焼かれるマンドラゴラを、静かに、して意味深にとらえているだけで済むことである。
クリーチャーの悲鳴は、いらない。
母が居るのだから、オフェーリアの主観による聴覚は、観客の想像にゆだねるべき。
以上。
季節外れの風邪にやられて朦朧として観た。
も一度観直したいところだが、
そんな時間などあるはずも無く、返却と。
今宵は高熱が呼び寄せた妄想と戯れる所存であーる。
☾☀闇生☆☽