ものには向き、不向きがあるといふ。
最近のバイト先で、先輩たちの口からやたら耳にするお言葉である。
「あの人は、この仕事に向いてない」
…的な。
きっと経験を積んだ人間ほど、他人のそれが見えるのでしょう。
けど、
その言葉に甘えてばかりもいられないという現状も、あるわけで。
他人によるその手の評価は別として、
何かにつけて、あれは向いてない、これは苦手だと当人がやっていたら、おそらくはキリがない。
んじゃあ、何が向いているのだ、といえばだ。
不肖闇生の場合ならば、実はなにも向いていないのだ。
下手すりゃ、社会が、
ひいては生きるのが、向いてないとなってしまう。
なってしまったって、誰も痛くもかゆくもないだろうが、なっちゃうんだぞと。
いわずもがな、やりたいことと、やれることの間には埋めがたい溝があったりもするわけで。
むろん、そいつを埋める方向で、どーかひとつと。
ひと匙、ひと匙のたゆまぬ地道の習慣化でもって、ゆくゆくはどーかひとつと。
生きる以上は、おねがいすべきものなのだがあ。
少なくとも、
向き不向きで選択できるような、お偉い身分ではないのだな。
たとえばこのケーピの交通誘導。
四方八方の状況を常に意識して、
車両と、歩行者の安全を気遣いつつ、
その都度、優先順位をつけて、誘導していく。
先輩には七差路の真ん中でそれをこなした猛者もいたよ。
常に七方向と、
刻々と変わるそれぞれの信号と、
歩行者と車両の流れとスピードを感知しつつ、
いまかいまかと10トン車を待ち構えるその姿勢は、
つねに上体を振り子のようにゆらしていて。
誤解を恐れずにいわせてもらえば、さながらスティービー・ワンダーかと。
でもね、
これってデスクワークや、小売店の受注発注なんかにも共通することで。
ときに、制止を聞かずに突破しようとするのがいたり。
そこには、
宮本武蔵にならうところの「見」と「観」の極意が求められるわけで。
それぞれの案件を個別に「見」ていているばかりでは、駄目で。
全体をゆったりと「観」ることが肝要と。
先日、談志の言葉をここに紹介させてもらったが。
同じ内容を、彼は別の言葉でこうも言っている。
状況判断能力のないやつは、馬鹿。
でもこれは、鍛えられるものだと思う。
生きることは、その瞬間、瞬間の状況判断の連続なのだから。
そういや、
どっかの国のソーリが、
いまそんな交差点の真ん中で、あたふたしてますな。
こっちを通すにゃ、あっちを止めねばならずと。
☾☀闇生☆☽