「抱かれているのは確かに俺だが、抱いてる俺は誰だろう?」
これは古典落語『粗忽長屋』のサゲである。
行き倒れの死体を見て、それを親しい友人であると思いこんだ男。
その友人を呼びに行って、曰く、
「大変だ。お前が死んでるぞ」
お前の死体なんだから、自分で引き取りに来い。
言われた友人、あわてて現場に駆けつけて自分の死体とご対面。
亡骸を抱きしめて悲嘆にくれる。そこでのひと言が、上の台詞でなのあーる。
粗忽とは、おっちょこちょいという意味らしい。
しかしながら立川志らくの『全身落語家読本』(新潮選書)によれば、その師匠談志はこれを『主観』の強すぎる男の話と分析した。
主観の強すぎる奴は、自分の死すら分からなくなると。
「私は私自身を探した」
とのたまったのは遠く古いギリシアのおっさんだ。
ヘラクレイトスだ。
きっと深〜い内省、内観を経たうえで世界や神を見てとろうという、そんなどえらいことをしでかしたお言葉なのだ。
けどね、
この場合『粗忽長屋』じゃないけれど、探されたのは確かに私だが、探した私は誰だろう。
つまりが、客体としての私を語るのはいいけれど、その語る主体の私はいったい何者?
ほったらかし?
と後世、突っ込まれるらしいのだな。どうやら。
そこへいくとソクラテスののたまった「私は私が無知であるのを知っている」という無知の知。
こちらは主体が主体と頷き合う言葉。
つぶやき、なのだそうだ。(『面白いほどよくわかるギリシャ哲学』左近司祥子・小島和男共著 日本文芸社)
ああ、ややこし。
自分を探す。
まるで戦後に流行った『自分探し』のようだが、あれのように「居場所」や「向き不向き」を指しているのではないのだね。
そう思い至って粗忽長屋を思い出したのだ。このたびは。
主体と客体。
主観と客観。
ううむ。
あたしゃいわゆる『自分探し』とやらを、犬に自分の尻尾を追いかけさせるキャンペーンのように捉えている。
けど、そこへいくとさすがは古典。
談志のような探究者がみっちりと洗い直せば、ちゃんと現代に対峙するのだ。
古典にしてすでに戦後の風潮に向き合うと。
というわけで、
ちょーしこいて読み始めた本も、落語に気が散ってしまって挫折。
談志復帰を祝う。
☾☀闇生☆☽