見逃していたイッセー尾形の舞台を、いまさらになって追っている。
宅配レンタルでね。
かつてビデオ屋に勤めていた昭和の終わり、『やっぱり猫が好き』と合わせて毎晩のように観ていたものである。
『都市生活カタログ』シリーズとかね。
けれどある時から微妙に芸風が変化したように思えて。
それは、じっくりと検証したみたわけではないのだけれど。
彼の場合、ひとり芝居という形式だから、いわずもがな「主人公」以外は透明である。
そこにまるでもう一人いるかのように演じることで、観客はそれを想像するわけ。
その透明人間が何を発言したのかは、主人公の反応だけが手掛かりになると。
だから一見して文脈が飛んでいる場合があり。
して、その余白にこそ面白みがあったのだ。
んが、
それではあまりにも表現の自由が限られてしまうらしく。
というか、
観客の想像力の自由よりも、限定されたわかりやすさを選んだのだと思う。
時代がそういうことになってもいた。
とどのつまりが、透明人間の言葉を主人公が復唱するようになった。
「あ。降ってきた」
「え?」
「降ってきたよ」
「まずいな。傘、持ってきてないや」
「貸してあげるよ」
「ある?」
「あるある。裏の物置の洋服ダンスの横にさ。青いのが」
「あそう。たすかるわあ」
「取ってこよっか」
「いいいい。俺、自分で取って来るから」
そんな会話もかつてならば、
「え? …。 まずいな。傘、持ってきてないや。…? あるの? …………。あそう。たすかるわあ。 …。 いいいい。俺、自分で取ってくるから」
なんて具合だったろうけれど、
それが、
「え? 降ってきた? まずいな。傘、持ってきてないや。ん? 貸してくれんの? ある? 裏の物置の? 洋服ダンス? その横に青いのが一本あるって? あそう。たすかるわあ。 え? 取ってこようかって? いいよいいよ。なにもそこまで…。俺、自分で取ってくるから」
そのあたりの『説明』が気になり始めて、あたしゃ遠のいたのだ。
だから、野田秀樹が書いた大竹しのぶのひとり芝居『売り言葉』も、そういう点ばかりが目について。
と、
そんなこんなで思うのだが。
ひとり芝居の初歩的な工夫のひとつが、その復唱をいかに減らすかではないのだろうかと。
それと『都市生活カタログ』なんて言葉があらわしている通りに、サンプルとして人物のある瞬間をとりあげていた。
起承転結にせず、大雑把に切りぬいて。
だから、今と違ってオチとして成立していないものもあったりしたわけ。
博打で大コケしてすってんてんになった男が、ひたすら嘆いているだけのやつとか。
そのセリフにまるで文脈はなく。
けれど、その男の意識の流れは、確かにあって。
舞台が進行していく、というよりは、そんな人々がいる町を観客のほうが通り過ぎていくと。
車窓から流れていく人々を見送るような。
だから、不意に聞えてきて、見えてきて、そして消えていく。
説明が増えてわかりやすくなった分、緊張感は緩和されたかな。
されてしまった、というべきか。
テレビ的になったと言ってしまおうか。
ノスタルジーは、いいか。
そんなつもりで書いているわけではないけれど。
思えば、あそこには独特の『夜』があった。
いまのにあの『夜』はない。
そこはひとつ、
昔とは違った楽しみ方ができる。ということで。
☾☀闇生☆☽
しっかし、だせえ。
ジェフ・ベックのジャケ。
ギターありきで、あとから鳥を描きこんだのかね。
あれは飛翔する鳥がギターを掴んでいるの?
それとも、宙に浮いたギターにとまろうとしているの?
あれを手にしてレジに並ぶなんて。