ジェイミー・カラム
『ライヴ・アット・ブレンハイム・パレス』DVDにて


 ジャズがまだエンターテイメントの王道であり、
 それそのものとして厳然としたポップスであった時代のミュージシャン。
 とどのつまりが本物の芸人。
 ここでのジェイミー・カラムのパフォーマンスからは、そんな本来の、つまりは生粋のジャズマンを感じずにはおれなかった。
 収録されたインタビューを踏まえれば、彼はそれを嫌うだろうが。


 ジャズといえば、
 いまでこそ音楽のいちジャンルにすぎない。
 んが、
 そもそもは伝統というバトンを引き継ぎつつ、その時代その時代の音楽を反映する『習性』があったはず。
 ええい、めんどくさい。
 役割、と言い直そう。
 ポップスこそがジャズあり。
 ロックもまたジャズであり。
 マイルス・デイビスがディズニーやシンディ・ローパーの曲をジャズ・スタンダードと同等に扱ったのは、その意味において当然の姿勢なのである。
 彼は生涯いちジャズマンであったのだ。


 現代ではオリジナルに対するカヴァーという概念がある。
 特に差別的な意味合いにおいて。
 けれどそれは著作権などの利権や、個性の時代になってから確立されたのではなかったか。
 ブルースの黎明期を振り返るまでもなく、かつては良い音楽はみんなのものだったし、そうやって分かち合うもので。
 ようはそれをどう演じるか、そこに個性を宿らせたものだ。


 たとえば絵画の歴史がそうだろう。
 伝達のための記号が、いつしか文字と絵に分かれた。
 絵は滅私のうえに構築されて宗教画に。
 して、より技術を極めようとするその競合の過程で、次第に比重は作者の個性へと移りかわり、
 印象派やらキュビズムやら、
 シュールレアリスムやらと変貌をとげる。
 けれど、それと同時に庶民の実情から遠のいてしまうという皮肉な一面もあったりして。
 それはクラシックも然り。
 教会からバロックが生まれて、印象派を経て、現代音楽へと。
 ほかでもないジャズも、実はそんな道を歩んでいる。


 かつて主役は彼らオーケストラではなくダンスフロアにあったのだ。
 やがてミュージシャン個々人が技術の極みを求道するにつれて、観客はテーブルに着き、文字通りの観賞者となった。
 技術の運動的な研磨に限界を見ると、今度は理論的に可能性を求めだし。
 スイング、ビバップハードバップ、クールジャズ、モード、フリー…etc。
 音は色彩を帯び、
 広がりと奥行きを獲得し、
 新たな構成も試されて、
 やがてそれもまた壊されて。
 壊しの美学もまた追求されて。
 気づけばダンスフロアに、もはや人影は無い。
 テーブルを囲ったあの猥雑な空気も、いつしか畏まり。
 メインストリームから去って行った。


 ルイ・アームストロングが、確か言ったはずである。
 ジャズとは何か、
 そう疑問を抱いた瞬間、あなたは一生ジャズを理解出来なくなる、と。
 これは話し言葉までがジャズだった、とのちにマイルスに言わしめた彼だからこそ言える言葉だろう。
 志ん生が落語そのものであったように、彼はジャズそのものだったのだ。
 彼が歩いた足跡を、人がジャズと呼んだのに過ぎない。


 ちなみに、
 それぞれのジャンル、カテゴリーもまた、発祥地点ではそんなことが起きているのではないかと、闇生は思う。
 たとえそのパイオニアと言われる人が、机上の理詰めで作ったつもりでいても、その仕分けの最終決定権は観賞者にあると。


 んでね、


 ジェイミー・カラムだね。
 服に合わせて体を作るのではなく、好きに着たそのナリを人がジャズと呼ぶならば、それこそが本望だろう。
 それでこその自由の象徴、ジャズだ。
 本来のジャズマンだ。
 雨に唄えばも、
 ジミヘンも、
 ビートルズも、
 ビーチボーイズも、
 ニルヴァーナも、
 レディオヘッドも、
 彼が現代を生きる自分として消化して、反映して、それがジャズになっているのだから、理想じゃんか。
 ジャズのふところの広大さは、本来そういうところにあるのだから。
 単なる古典の再現やノスタルジーとしてのジャズは、活きてない。
 そうそう。
 このライヴDVDを観た第一印象の、芸人としてのジャズマンだが。
 ダンスフロア(観客席)をこれでもかと盛りたてる、かつてジャズがもっていたはずのスピリットに、それを感じたわけ。
 その伝統を、彼は知らずに引き継いでいる。
 古くは御大レス・ポールのライヴがそう。
 匠の技術が支える、旺盛なサービス精神。
 これぞエンターテイナーだね。




 




 ☾☀闇生☆☽


 何を隠そう、ディスカスでレンタルできます。
 そういうわけで、
 ジャズ好きはむろんのこと、
 詳しくない人にもがっつり楽しめますぞと。
 極上のエンターテイナーによるロックコンサートのつもりで、どうぞ。
 High and dry.
 観客の熱狂もまた、うれしい。






 落語もまた、こうありたい。




 追伸。
 時に打ち込みまでかます最近のスタジオ版とは違って、彼のピアノトリオを基本とした演奏です。
 そこに生のストリングスとギターをのせている感じ。
 シンセすら無い。
 よって六年も前の収録らしいのですが、んなこた関係ないと。
 生だものさ。
 それから、
 誤解のないように蛇足をかませば、
 最近の曲をやるからとか、新しい楽器を使うからと言って音楽が新しいとは限らないものです。
 それはつまり、必ずしも現代落語が現代人の胸を打たないのとおなじ。
 ケータイやネットや女子高生の言葉づかいを引用したからと言って構造やテーマが「あたらしい」とは限らないと。
 本質は、別なわけ。
 古典をやりつづける談志の落語がいいのは、現代と現状にもだえる生身の談志が、そこに放り込まれてあるからなのですな。
 そこに『今』と古典との接点がある。
 再・生がある。
 とかなんとか、えらそーにかましてみたものの、この問題を考えるととめどもなくなってしまう。
 身の丈をこえたことを書こうとするから、こうなるのじゃよ。
 んめっ。