ジョン・カーペンター監督作『ザ・フォッグ』DVDにて


「霧が好き」
 だなんてぬかしておきながら、この代表的『霧モノ』を見逃していたことに、気づいた。
 ならばこれを機に、とさっそくレンタルしてみたぞと。
 1980年公開。
 名匠ジョン・カーペンター監督作のホラー映画である。


 舞台はアメリカ、オレゴン州のちっぽけな港町アントニオ・ベイ。
 とある恨みを抱いて死んだ百年前の船員たちが、その復讐のため、霧にのって町を襲うというお話だ。
 岬にはぽつん、と燈台がある。
 して、そこで灯台守よろしく女がひとり、ラジオ局を営んでいる。
 彼女がナビゲートする深夜番組が、ひたひたと深まっていく夜の町の空気をよくあらわしていた。
 このあたり『アメリカン・グラフティ』を彷彿とさせて心憎い。
 して、問題の怪奇現象を呼ぶ霧だが、これは水平線から風に逆らい、不気味に光りながら押し寄せてくる。
 その進行状況を、この燈台のラジオ局から俯瞰させるのはうまかった。


 さて、霧とともに現われる亡霊の殺戮者たち。
 海上の船員を、漁具の鉤などで襲うのだが、なぜかその遺体は溺死体のようになる。
 肺は海水で満たされ、
 口からは塩を吹き、
 しかも海の底に何日間も沈んでいたかのようである。
 この仕組みがよくわからなかった。
 これを単に『怪奇現象』に甘えて片づけるのは、どうだろう。
 はっきり言えば、よろしくない。
 して、回収した遺体は、解剖室で不意に立ちあがり、歩行して、床にメッセージを残す。
 これも、謎だ。
 たとえばドラキュラなどのように、被害者は、死して加害者に変身するという仕組みでもないらしい。
 この死者の立ち歩きに、根拠やこの世界のお約束が用意されていないのではないのか。
 で、この『世界のお約束』というのが、こういった非現実世界には大切で。
 それが曖昧だと、なんでもアリとなり、結果グダグダとなる。
 さながら煮崩れる。


 ついでに言えば『霧』の設定にも首を傾げた。
 霧とともに亡者が町を襲い、それを恐怖するから、迫りくる霧を巨大なモンスターに見立てて描いているのではなかったか。
 だから少なくとも亡者は、
 つまりは恐怖は、
 霧の中にしか存在できないというお約束を設けなくてはならない。
 言いかえれば、霧の外は安全だと。
 けれど、
 最初の海上の殺戮で、霧の届かない場所でも、さまざまな怪奇現象が起こるのだ。
 DJの息子が拾ってきた難破船の残がいからは海水が溢れ、炎上し、ラジオからは謎のメッセージが響く。
 先にも書いたが、回収された遺体が解剖室で歩き出す始末だ。
 これでは、霧そのものから逃れようと奮闘する後半のクライマックスが活きてこないではないか。
 さらに言えば、この霧の正体は、いったい何なのか。


 プレステのゲーム『レガイア伝説』もまた、霧を恐怖の媒体とする。
 この世界では、霧そのものが魔物といっていい。
 霧は人工的に生産されたガスであり、それは人間を含む動植物を狂わせる性質がある。
 そこには、霧の中でのみ存在できるクリーチャーがあるが、それらにも階級があり、善と悪がある。
 して、霧が消えればそれらは絶え、狂っていた者は正気となる。
 だもんで、主人公たちの目的は霧を晴らすこと、と。
 お約束事が明確だ。
 だからこそ、ゲームとして成立するのである。


 あるいはスティーヴン・キングの『霧』。
 ここでは最後まで霧の正体を明かさない。
 が、なんらかのガスであることは、その『刺激臭』としてしっかり匂わせていて。
 確かに、霧とともに押し寄せたクリーチャーたちが、はたして霧の外でも活動できるのかまでは提示されなかった。
 しかし、それが謎であるということが、この作品では重要なのだ。
 霧発生の原因もまた「軍の関与」あたりでとどめて、解明せずにおくのもまた確信的かと。
 ここでは何より群集心理の恐怖を描くのが、目的なのだから。


 余談として。
 映画を観た勢いで、この『霧』を再読した。
 面白かったのは、異界から侵入してきたクリーチャーたちの捕食関係だ。
『人間 vs クリーチャー』という単純な構図だけではなく、クリーチャー内での弱肉強食を描いている。
 しかも、さりげない。
 てのが、抜け目ない。
 スーパーの窓に群れ集まった異界の『虫』を、これまた異界の『鳥』が、あっさりと食っちまうのだ。
 むろんだからといって人間の味方ではなく。
 それによって霧の中の世界の深みが、底なしに広がるのだな。


 さらに寄り道をする。
 プレステのゲーム『シャドウタワー』。
 自分視点で地下へ地下へと闇の迷宮を冒険する、ダンジョン探索スタイルのゲームだ。
 ここでも、クリーチャー同士の対立関係が、さりげなく示されていた。
 そもそものところ異界、もしくは自然界との対峙、という構図からして人間中心だろう。
 むろんフィクションというものは、所詮は人間が作るのだからして人間中心であることからは逃れようがない。
 んが、
 ならばせめて人知の矮小を描く節度くらいは持ち合わせるべきで。
 それには異界の階層や敵対、および捕食関係くらいは、さらりと匂わせてほしい。
 むかしのディズニーのように、ライオンとシマウマに並んで歌わせるのは、あんまりでしょ?


 というあたりで、話頭をザ・フォッグに戻す。
 亡者の群れの中に、復讐を躊躇うのがひとりくらいいると、面白いかと思った。
 子どもにだけは手を出さないとか。
 最後に、
 恐怖シーンの演出には、時代を感じずにはおれなかったぞと。




 ☾☀闇生☆☽