ポール・ニューマン主演『暴力脱獄』DVDにて。
旧五千円札の眼鏡の紳士、新渡戸稲造。
クリスチャンである彼が名著『武士道』を上梓するに至るわけから入ろうか。
そこには、たしかこんな経緯があったと記憶する。
日本国では国民の共通認識としての神が、唯一ではない。
もしくは、無い。
たとえば政教分離を謳いつつも、大統領就任式での宣誓に聖書を用いることに、何ら疑問を抱かないほどにまで浸透したソレが、無い。
「では、どうやって、日本では道徳を教育するのですか」
これは、いわゆる徳育の根拠についての問いであろう。
新渡戸はその質問を外国で受けた。
して、その経験が、執筆の切っ掛けとなったのだ。
訊かれて初めて気が付いたのに違いない。
人の行いの、すべきことと、すべきでないこと。
ざっくばらんに言ってしまえば、諸々のふるまいについての価値基準についてである。
清濁、
美醜、
賢愚、
善悪、
正邪…。
それらを嗅ぎ分ける感覚は、あまりに当たり前すぎるほどに我々の身に沁み込んでいるはずであり。また、そうであるからこそ、ひとたびその基準が揺らぎ始めると、再構築は至難と。
どうして無闇に人を殺しちゃいけないの?
神やその教えが明文化され、浸透していれば、そんな「どうして」の真摯な追求は、行きつくところその経典に解決されることだろう。
それを前に、人は「たかだか」一個という身の丈を知るほかなく。
そのたかだか一個の脳みそを、神と、神を支えた膨大な数の人と歴史とが、ねじ伏せてくれるわけだ。
あたまごなしの否定。
という愛。
しかし、ソレがないとなると、頼るは科学?。
が、科学もまた理性あって初めて有効となる産物で。
それ自体を主義化することの不毛もまた、歴史が記しているとおりであり。
では、理性?
だとしても、その理性を理性たらしめている根拠はいったいなにか。
してそれはどこから来るのか。
という、いわば徳の源泉が、是が非でも要るぞと。
新渡戸はこう見たのだ。
武士道こそ、日本人共通の観念になりうると。
とりわけ『滅私』に、キリスト教圏の『愛』を見出したのではなかったか。
士農工商、で考えれば、国民の大多数が『農』以下の末裔ではあるだろう。
それでも兵農分離以前から脈々とリレーしてきた価値感覚の血液が、流れているはず。
そいつを思想のレベルにまで純化した結晶が、侍で。
せめてその心意気ぐらいは呼び覚まそうという願いで、彼はしたためたと。
いや、熱心なクリスチャンである彼にあえてそうさせるほど、ソレが絶えた未来に恐怖したともいえるのかもしれない。
そこにもまた、彼なりの滅私だ。
で案の定、
我々は新渡戸が危惧したそんな時代を生きているし、これからも生きていくしかないのだろう。
と、前振りで目いっぱい背伸びをしてみた。
し過ぎてつま先がひりひりしている。
不肖闇生は不徳、背徳を売り物にするエロDVD屋である。
だもんで以上ののたまいは、噴飯ものに違いなく。
んが、そうとわきまえつつ続けちまう所存なのであーる。
これは、ポール・ニューマン主演『暴力脱獄』の感想である。
彼が亡くなった時、日本ではその代表作として『ハスラー』や『タワーリング・インフェルノ』が紹介されていた。
しかし、米国在住の映画評論家、町山智浩氏によれば、この『暴力脱獄』こそが本国アメリカでの彼の代表作なのだという。
それはさながら渥美清が亡くなったときに「寅さん」と報じたのに似ていて。
死去した彼を、米国国民はこの映画の役名「ルーク」で送ったほどであった。
ではなぜ日本ではこの映画が認知されなかったか。
ひとつは、お察しの通り、なにより邦題が愚劣であるということ。
なんですか。
暴力脱獄て。
日本語としても首をかしげざるをえないのだが、仮にセンス云々を抜きにしても、いただけない四文字ではないか。
かつてVHS時代のパッケージはさらに酷く。
黒地の背表紙に赤字でもって、肉筆でごさいとばかりにこの四文字だ。
目も当てられん。
どんなに薦めても誰にも借りて頂けなかったのだが、それも仕方あるまいて。
断じてあたしの営業力不足ではないのだぞ、と念を押しておこう。
それはさておき、
もうひとつは、キリスト教の浸透度の違いかと。
のちに触れるが、なんでもこの映画は実存主義を描いているとのこと。
ならば確固として立ちはだかる絶対神が、鑑賞者に意識されねばならない。
が、日本人にそれはない。
原題は『Cool Hand Luke』
或る夜、泥酔したルークはパーキング・メーターを次々と壊して歩いた。
逮捕され、刑務所行きとなり、刑期は二年とされる。
囚人たちは彼の見せる無鉄砲さに惹かれ、次第に好意を寄せるようになる。
たとえばポーカーで。
あるいはボクシングで。
はたまた、ゆで卵50個を一時間で完食すると宣言して、自ら賭けの対象となって。
それでいながらルークはいつだって飄々として笑っているのだ。
過酷なだけの労役も、競争にして、見事みんなを愉しませてしまう。
そんなルークだが、やがて脱獄をはかることに。
あえなく逮捕され、もとの刑務所に引き戻されるのだが、彼はあきらめず…。
たとえば同じ『刑務所』と『そこでの理不尽』、『脱獄』でいうならば、『ショーシャンクの空に』がある。
けれど、あれは無実の罪での入獄だった。
よって塀の外への未練もふんだんにあって然るべしで。
だからこそ自由に向かう動力として、不自由に耐える不屈が練磨されていく。
けれどルークの場合は、自由への熱い希求が感じられないのだな。
なんせ刑期はたったの二年なのである。
加えて、そもそものきっかけが明らかな有罪でもあり。
パーキングメーターを何台も何台も、淡々と壊し続けていたという冒頭のあれだ。
別にそこにあった小銭を盗もうというのでもなかった。
酔って気が付いたらそうなっていたとも、
あるいは田舎は退屈だからとも彼自身証言するのだが、あたしはどうもそこに人生への投げやりな態度を感じてしまうのだ。
上記した町山氏によれば、これは実存主義の映画だとのことだ。
出た。
あたしゃどう背伸びしても、そんな学問の、知ったかぶりすらできないオツムなのであるが。
要は神の不在を指しているようで。
実際、この映画のクライマックスで、ルークは神へ問いかけるのだ。
あなたはどうせ居ないんでしょ、と。
彼は神の存在を疑っている。
で、それを究極の発端とした、ありとあらゆる因習やら規則やらをも、信じてはいない。
ということは、慣習的な価値の優劣が、どろどろに溶解しかけているわけで。
よって塀の外も、内も、同じだぞと。
塀の中は、たかだか身の回りの世間に過ぎず…。
とまあ、この時点での境地は爽快だろう。
けれど、
そうなってくると勝負や生死の境界も、やがて曖昧となり。
彼の捨て身の無鉄砲は、価値をすり潰した先に生まれた「どうせ」にあると闇生は見るのだ。
けれども、ルークの面白いところは、単にアウトサイダーやアウトローではないところ。
どこかで、そんな自分すらも、哀しんでいる。
価値の崩壊した、のっぺりとした大地を、不毛と見ている。
塀の中だろうが外だろうが、日々の理不尽に耐えつつも生きねばならない、ということには変わり無いと。
ならばいっそ愉しんでしまえと「どうせ」の不毛にあらがうところ。
長く厳しい刑務に退屈していた周囲は、そんなルークを、さながら反体制のロックスターのようにあがめる。
が、当のルークは、自分の不毛と闘っていたにすぎないのだ。
おそらくは執拗な脱獄も、それ自体を闘争として愉しもうとしていたのではなかったか。
なんせ、出たあとのヴィジョンが、少しも語られないのだから。
ばかりか、飢えた囚人たちが、労役中に見かけたエロい女に騒ぐシーンでも、ルークだけが冷めた笑いでやり過ごしていた。
心は、すでに折れていた。
彼の不屈は、
してその笑顔は、外部への反抗では決してない。
内なる不毛へのあらがいだ。
過去に兵役がある。
勲功もあって、戦場の英雄でもあったらしい。
それにもかかわらず、退役時にはただの二等兵。
つまりは平社員。
敵と味方。それぞれの神の違い。その信仰の度合い。勇気と怯懦。そして、日々の行いや人種や年齢や性別、それらに関係なくやってくる、死。
勘ぐれば、戦場で目の当たりにしたこれらが、彼を直接的に磨滅したのかもしれない。
実存という地ならしもまた、そこに絶対的で強固な価値観あってこそ。
肝心なのは、それらに地ならしをかけたあとだ。
そこにまくべき種と、水と、日光の在り処。
「では、どうやって道徳を…」
それはつまり活力を、と言い換えてもいいかもしれない。
日々ひたひたと満ちてくる得体のしれない無力感。
現代では、決して他人事にはできない問題なのである。
☾☀闇生☆☽
ルークを英雄に見立てる大衆の無責任な喝采が、印象に残った。
そこに『カラマーゾフの兄弟』での、有名な「大審問官」のくだりを連想した。
人は本当の自由に耐えられない、というあれね。