奇跡の人、といえばヘレン・ケラーだ。
見えず、聞こえず、話せずの三重苦といわれた彼女。そんな言わば独房といっていい生まれでありながら、やがて世界を知る。
ばかりか意思の疎通を会得し、社会的に活躍するまでになったのだから、なるほど奇跡の人ではないだろうか。
して、そんな彼女を描いた映画があって、その名も『奇跡の人』。
ところがこの原題は『Miracle worker』というのだな。
Worker?
そう、奇跡の人とは、ヘレンケラーを指すのではなく、暗闇の彼女に世界を教えたサリバン先生のことなのである。
我が子が生まれながらに三重苦とあっては躾けも教育もままならず、両親が将来を悲観するのは無理もない。
ヘレンをもてあましてしまうのだ。
ここであらためて気づくことだが、人間とは躾けられ、教育され、学習してやっとこさ人間になる。
それがなければケダモノといっていい。
して、双方を分け隔てる最重要ポイントとして『言葉』があり。
それはつまり思考の根源的な素材であって、伝達の媒体そのもの、と言ってしまおう。
なので、家族の中で言葉を理解しないヘレンだけが、さながら動物のような味噌っかす。
今でいう育児放棄に近い状態にされていたに違いない。
彼女にとっては世界とは、無音で、しかも光りの無い独房にほかならなかった。
けれど、それが独房であったとのちに認識させたのが、外の光を教えたサリバン先生その人であり、ひいては言葉なのである。
さて、
ひと口にそう言いきるのは簡単だが、実際に教えるとなると相当の忍耐が強いられるわけで。
あえて不遜を承知で譬えるが、野生の動物を躾けるのを考えれば、その苦労の想像のとっかかりぐらいは感じられると思う。
映画の中でも、野犬のように荒れ狂うヘレンに付き合い、執拗に躾けをつづけるサリバンの奮闘が描かれている。
そのシーンの長さといったらなかった。
その根気。
むろん教師としての技術あってのことだが、明らかに、理論やテクだけでどうにかなるものでもない。
いや、それは何も三重苦に限らないだろう。
実は先日ここに書いた、わらべのままに年齢を重ねる人たちの仕事場。
その門前で、こんな光景を目撃したのである。
先生が車で新顔を連れてきた。
助手席にいるその表情からみるに、おそらくは彼、ダウン症であろう。
先生が先に降りて助手席のドアを開けてやったところで、なんと彼が爆発したのだ。
自分の頭を平手で殴りながら「いやだ、いやだ」と叫ぶ。
今度はフロントガラスを割る勢いでばちんばちんとテッポウを繰り出す。
車が揺れるほどシートに後頭部を打ちつる。
「いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ」
力ずくでドアを閉めようとするあまり、先生が挟まれてギシギシと音を立てる。
時間にして三十分くらいであろうか。
先生はその間、声も荒げず。
といって、暴れる彼を力ずくで制止するのでもなく。
傍らで静かに語りかけているのである。
長かった。
その三十分が。
その男の先生はマスクをしておった。
なので、不肖闇生は、せめてマスクをとって表情で訴えたらどうだろうと、えらそーに感想を抱いたのだが。
やがてスイッチを切ったように静まって、彼、大人しく先生のあとについていくではないか。
驚嘆した。
てか、感動した。
していいだろう? そういうことに感動しなくて、どうするよってもんだぜ。
あの根気は技術や、あるいは報酬だけでコントロールできるものではないよ。
でね、
そんなことで、上に書いた古い映画を思い出したわけなのだが。
それともう一つ、
『八日目』という映画がある。
こちらはダウン症の青年を描いたもので。
実際にダウン症の俳優が、それを演じている。
彼、(いわゆる)障害者のオリンピックでの常連メダリストであるらしく、むろん俳優としてもプロ。
大切なのは、この題材をエンターテイメントとして仕上げようとした制作者の心意気である。
こういう小さな良品を、コンスタントに紹介していたアスミックは、あのころ輝いていたぞ。
と、元ビデオ屋は思うのね。
ネタバレしないどいてあげるから、観てミソ。
と、えらそーに書いておく。
何かしらは、強く感じることがあるでしょう。
☾☀闇生☆☽
あ。
『奇跡の人』は必見ね。
アン・バンクロフト、名演。