立川キウイ著『万年前座 僕と師匠・談志の16年』新潮社


 
 関東の落語の世界では、言わば身分制度といっていい格付けの倣いが厳格に設けられてあって。
 下は『見習い』から始まって、
 『前座』、
 次いで『二つ目』、
 そして『真打』と、出世するたびに名を変える。
 昇進するニンゲンは同じでも、身分によって天と地ほどに扱いがかわるのだから、出世魚といっていい。
 前座までが師匠に付きっきりとなり、着物をたたんだりお茶を出したり自宅の掃除などという身の回りのお世話をする。
 二つ目である程度の自由が許されて、主任といった体。
 真打ともなればフランチャイズの店長といった感じだろうか。
 この制度。大概の流派が年功序列で踏襲するらしい。
 んが、立川流だけは例外で、ことのほか厳しいのである。
 まず入門するにもお金をとる。
 それ以降も上納金と呼ばれる月謝を納める義務がある。
 この制度に首をかしげる人も少なくないが、家元談志曰く、
「茶の千利休や日本舞踊は月謝とって教えてんだろ。なんで落語が月謝とっていけねえんだ」
 ごもっとも。
 ましてや立川流の場合「談志の弟子である」というその事実だけで、世間はちやほやしてくれるのだ。
 噺のマクラで使えもすれば、師匠をネタに本も出せる。
 つまりは看板料という意味合いもあると。
 それに加えて出世のけじめとして独特なのが、昇進試験制度である。
 落語はもとより、踊りや唄という伝統芸の基本を試されるわけだ。
 で、前置きが長くなったが、そんな立川流に、なんと十六年ものあいだ『前座』でいた弟子がいた。
 その名も立川キウイ
 談志の談の字も、志の字ももらえない変わり種である。
 繰り返す。
 十六年だ。
 現在四十を越えている。
 はたして生きている間に真打になれるのかどうか、正味の話が、あやしいわけで。
 有体に云っちまえば、おちこぼれである。
 中年で、ダメなやつ。
 そんなわけだから、同類からの共感を呼ぶとか、あるいは反面教師に見立てて溜飲をさげるネタにされるとか。
 うん。
 これ、不肖闇生は笑えない。
 彼がさらけ出す自身のダメダメ感に、当惑するほどに、うなずいてしまうのだ。
 けれど、これ、決して褒めてはいないからね。
 なるほど、兄弟子で売れっ子の談春の『赤めだか』ほどの文才はないし。
 構成力も拙い。
 といって同じく兄弟子の志らくの文章ほど、分析力がない。
 とても及ばない。
 そこのところに、やっと二つ目という、課題の山がほの見えているような気もした。


 行け、おちこぼれ!





 ☾☀闇生☆☽

 決して万人にお勧めはしない。
 けど、落ちこぼれの愚直さと、そんな彼から見上げた談志の肖像を、少しでも感じようと思ったわけ。
 なにより、そんな弟子を談志は十六年も傍に置いておいたのだから。
 むろんその師弟間には、人情だとかいう生易しいものばかりではないのだけどね。
 師匠の下す理不尽に耐える。
 それが修行というものだそうだ。
 いわんや社会においてをやである。
 そのわがままな師匠が景気であり、客であり、時代であったりすると。
 そう考えてふと頭をよぎったのが、子供の嫌がることは徹底的にさける昨今の教育の風潮なのだが…。