デヴィッド・フィンチャー監督作『ゾディアック』DVDにて
舞台は六十年代末〜七十年代前半のアメリカ。
大戦でありついた勝利の美酒に酔いながら、かの国はなおも銃を背負い、ひた走っていた。
世界第一等国への道を。
それはとりもなおさず、経済という戦場での不敗神話を生みつづける覇道のはずであり。
つまりはモノに、
そして電気に爛熟する明るい未来を実現していく道であることを疑うものなどおるわけもなく。
しかしながら、熟せば熟すほどにモノには埋めることのできない何かが、人々の心にのっぴきならない影を落とし始めて。
はて。
何かがズレはじめていやしないか。
気づけば道は、介入の度合いを深めるほどに疲弊するベトナム戦争という泥沼の真っ只中にあった。
影は、その不安をよりどころとして、熟した時代を吸って膨らんで。
思えばアメリカ映画が描く犯人像にpsycho野郎が増え始めたのも、この頃ではないかと。
この作品の中にも取り上げられていたが『ダーティーハリー』の一作目が、丁度この事件の頃である。
して、その一連の時代の空気として、かの国の象徴でもあった映画が、暗く内省的になっていくのだ。
アメリカンニューシネマ。
以上は不肖闇生の独断と偏見による。
妄想といってもいい。
言ってくれ。
ともかくも、この未解決の事件。
実在したはずの犯人を想像するには、そんな時代背景への配慮なくしてできるはずもないし。
また、その犯人像をあれこれと想像する時間、それこそがこの映画の味わいどころではないかと思うのだ。
繰り返すが、扱われているのは実際に起きた有名な未解決事件である。
つまりは、犯人は今なお捕まっていない。
ということは、映画の鑑賞時間中にその解決があるわけではないし。
ましてや、それによるカタルシスなどが無いことは分かり切ってもいるわけで。
そうと踏まえたうえで観賞するのだから、
「なあんだ」
犯人、わからねえのかよ。ってのは無しね。
憎悪や、被害者への直接的な怨恨ではなく。
社会だか世界だかへの言いようのない復讐心をたぎらせている、謎の犯人。
彼は警察やマスコミに暗号を交えた殺害予告、もしくは報告をする特異な人物であり。
時にはそれに被害者の遺留品を同封するほど強く、ねじれた自己顕示欲を持つ。
となれば、これほどマスコミにとってうま味のある事件はなく、例によって総力をあげて大衆を煽るのだが。
煽られた大衆の中から模倣犯が現れたり。
思い込みやガセネタが飛び交ったりして、結果としてマスコミもまた翻弄されていくというこの迷宮構造が、なにより興味深かった。
情報が、捜査の壁にもなり得るという皮肉。
なんでも監督は史実に基づいて、忠実な再現を心がけたという。
関係者にも綿密な取材を敢行して、当時の警察関係者には現場でアドヴァイスまでしてもらっている。
あたしゃこの「史実に基づく」とか「忠実な再現」とやらがそのまま映画の紡ぎ出す『印象的リアリティー』に必ずしも結実するとは思わない。
抽象化や象徴化、または誇張が、
場合によっては創作が、リアリティーを生むケースも少なくないのでは、とまで思っている。
ましてや、検証VTRを観ようというのではないのである。
映画だぞ。これは。
坂本竜馬を知りたければ『龍馬がゆく』ではなく、史料にあたるべきだろう。
けれど、そもそも娯楽の角度から嗜もうと映画を選んだのだ。
だから、そんな楽屋話にごまかされてはいけない。
ただし、
と敢えて言おう。
言っちまおう。
今回は、その忠実ぶりが功を奏したのかもしれないと。
当初、フィンチャーらしい「テライ」が無いことに闇生は戸惑いを感じつつ観ていた。
さては、老いたか。
と、軽い落胆さえ抱いた。
んが、
考えてみれば被害者の中には生存者があるのだし、また遺族への配慮もむろんあるわけで、それがフィンチャー得意のテライや臭みを抑える役割を果たしたのではないか。
忠実は、せめてもの誠意であると。
なんせ代表作『セブン』では、同じようにPSYCHOな犯人を、もっとも魅力的にしあげてしまったという過去がある。
あれはフィクションだが、こちらは実話なのだから。
その抑えの効いた一品であることは間違いない。
よって、
今作には派手な演出もアクションも、セックスもなく。
基本的には淡々と会話劇が続く。
しかも長尺である。
それでも少なくともあたしゃ最後まで引き込まれたよ。
あ、
最後に、
やはり抑えた色がいいんだわあ。
影がいい。
そして生活音の乾きがいい。
ロバート・ダウニーJrが、いい。
『セルピコ』を演ったときのアル・パチーノみたいで。
☾☀闇生☆☽
犯人像。
今の日本では、決して特異なものではなくなったような。
と、
こういった作品は、頭の隅で自分たちの社会と照らし合わせて、反芻することが大切かな。