エロ屋のほうでの勤務の休憩中に、ふとブックオフに立ち寄った。
 いまの店舗の控え室は、売り場から完全には遮蔽されてはおらず、よって読書にしろ、仮眠にしろ、専念しにくい環境である。
 つまりはドアがないと。
 ついたてひとつで仕切られたスタッフあたくしの、つまりは他人他者自分のビミョーなカンケイ。
 いやん。
 ひとりになれない。
 ならばとあきらめ、漫画の立ち読みでもかましたろと繰り出したのであーる。
 たかが立ち読みに「繰り出す」おっさんもおっさんだが、ふところ事情のあやうい男を、ふところ深く繰り入れさせてくれるブックオフブックオフだと。
 食傷して久しい清水國明の店内CMには耳をふさぎ、そのふところにつけ込むように甘えてやろうと企んだ。
 とはいえ、いかんせんこの闇生、昨今の漫画事情にうといために、棚のどこに目を向けたらいいのか、さっぱりわからん。
 ならばCDの棚をば。
 むろんそうは思ったさ。
 んが、
 それはそれでこのワークシェアという個人的財政難のときに、うっかり衝動買いをやらかしそうで。
 恐くて、みるともなく冷やかして、逃げるようにDVDのコーナーへとたどり着いた次第。
 けどね、
 ふところ事情を考えてしまったら、どこに行こうが同じなのね。そこで、
 てやんでえ。
 と江戸っ子でもないくせに高をくくり、
 宵越しの銭は持たねえぜと、職人ぶって。
 いや、そんなつもりになって、落語を想った。
 DVDで、なんか掘り出しものはないかいなと。
 しかし想われた方が、想ってくれることなんぞ、人生にそう滅多にないわけであり。
 ああやっぱね。
 とまあ、その流れで、ほとんど期待もせずに閑散とした演劇コーナーへとカニ歩き。
 でだ、
 出会いというものは、そんな欲望をすかされるフラグを経てこそ、訪れるものだと。


朝日のような夕日をつれて’97』


 鴻上尚史が主宰した第三舞台の代表作。
 それはその何度目かの再演を収録したものだという。
 ライヴはむろん、映像すらも観たことがない第三舞台
 それが一枚だけ、なんかよくわからんミュージカルのごっついボックスセットに挟まれてて。
 財布を持たずに来てしまったから、あたしゃあわてて店に駆け戻った。
 野田秀樹の率いた『夢の遊民社』などとともに、昭和のおわりに小劇場ブームを作った文字通りの立役者だということは知っていた。
 その上で、
 かつて同じ鴻上の傑作『トランス』という戯曲にやられたことがあって。


 細かい解説はここではよしておこうか。


 前にも繰り返し書いたが、芝居は生で観てこそなのだし。
 ただ、
 鴻上の著作『孤独と不安のレッスン』でも触れていた『自分』『他者』『他人』という関係性のなかに立ち上がる『個人』というものをここでは扱っていて、それがおそらくはふんだんに誤解も呼び込みつつ、たとえばいわゆる「自分探し」に重ねられたりしたのが、あの熟しすぎた昭和の終わりに支持された理由かもしれないと思った、
 ことにしてしおく。
 再演のたびに表層に散りばめたギャグは、その時代にあわせて書き替えているそうだ。
 これは「’97」とあるから、まあ、それを念頭にふところを広げて挑まないと、はぐれてしまうに違いない。


 面白いと思ったのは、
 道具というものはそもそも、人間が自分の能力の延長として生みだしてきたもので。
 ハサミでも、ハンマーでも、手の延長として考えられるし。
 自転車や車は、足の延長であると。
 ならば、コンピューターは脳の延長で。
 神経をつたう電気信号をつかって筋肉やらを操る人間は、いわばデジタルの産物。
 なんでもその信号は四進法であるというが。
 コンピューターの二進法は、この四進法が生んだわけで。
 そして、それら道具も含むこの世のすべてが、所詮は原子でできているわけであり。
 それぞれの違いは、たかだか組合せの違いに過ぎないと。
 六面がそろったルービックキューブを壊し続けていけばいずれまた六面揃うという確率は、決してゼロではなく。
 そんな気の遠くなるような、途方もない壊し続けの、して組み合わせ続けの、四進法の突き進む遥か彼方に、再び今現在のこの状態の僕たちとまったく同じように原子が組み合わさることが、あるのではないか。
 とどのつまりが、輪廻転生としてだ。


 仏教方面からやってきた古くからある考えが、こうして現在に届けられる。
 むろん上に書いたのはあたくしの解釈のままに文字にしたまでで、本編では言い回しもセリフもまるで違って、この結論へ至る言葉の音の流れにこそ、強さと、愉しさがあった。


 冒頭とケツ。
 そこで、役者たち全員が詩を唱和する。
 これはくりかえし噛みしめたいおいし〜いところである。
 独立とは、孤立とは違う。
 これを観る前も、そのあとも、ひとりであること。それはまぎれもない。
 けど、独り、凛として、立つその風情をつかむこと。
 つかもうとすること。
 それこそがこの芝居の目指したものだろうと、確信する。
 この詩は上にもあげた『孤独と不安の〜』にも抜粋されてあるので、興味を持ったかたはどうぞ。



 



 朝日のような夕日をつれて
 冬空の流星のように
 ぼくは ひとり





 ☾☀闇生☆☽


 冒頭でいきなりYMOのTHE END OF ASIAが流れる。
 それもライヴ盤『パブリックプレッシャー』のバージョンで。
 いやあ、何度聞いても高橋幸宏のタイコのテンションに、のっけからやられてしまう。
 ただただタイコがひとり、シンプルにキープしているだけなのに。
 唯一、同時に小さく鳴っている単音のキーボードだけが、それをたすけてもいるのだが。
 これはいまも闇生が愛聴し続ける名トラックなのだ。
 が、それと芝居とはまるで融合していないように思えて、最初戸惑った。
 けど、第三舞台ファンからすれば、
 いや、YMOの音を知らない方からすれば、どうやら違和感はないようで。
 たしかに、ケツで再び流れたときは、すんなりと受け入れたよ。
 アンコールを要請する観客たちのくつろいだ視線の中、たった一騎の先駆けよろしく凛として叩き始めるあの風情。
 それが、知らずに芝居と重なったのかもしれない。

 
 敬称略。