キャッチボールについて書いた。
そのついでに、懐かしい映画を思い出してしまった。
『フィールド・オブ・ドリームス』
レンタルビデオ屋にいたころ、えらく回転したのを覚えている。
いまでは何度も地上波で放映されて、おなじみの名作となってしまった。
けれども、たとえば『ゴッドファーザー』や『風と共に去りぬ』ほどにまで時代の淘汰を凌いでいれば、若い世代にもクラシックとして視野に入るのだろうが、今作のような90年代初頭の傑作は、古さが半端なだけに意外と見落とされているのではないかとも思うのだ。
え?
そうでもない?
まあ、ケーブルなんかの洋画チャンネルを頻繁に観ている人ならば、そうか。
にしても、いわずもがな、レンタルビデオ屋の隆盛期を彩った傑作なのであーる。
この映画のクライマックスこそが、他でもない、キャッチボールなのだ。
そこに言葉は無く、
説明も無く、
ただ父と子が向き合って、延々とボールをやりとりする。
それだけのシーンに、なにゆえあんなにも感動をするのか。
言葉のないあの長い尺に、観客は何を見ているのか。
球場に連なる長い車列は、蛇足とまでは言わないが、感動の『芯』ではないことは明らかで。
あれは単に、泣きの促進としてのサービスにほかならない。
米国人にとってのベースボールというものは、特別な想い入れがあるものなのだろう。
試合開始前の国歌斉唱でのあの盛り上がりを見れば一目瞭然。
アイデンティティーを、同胞と確認し合う意味もあるのではないかと思う。
それをさておくにしても、ベースボール(野球)の第一歩がキャッチボールである。
あの延々と続く反復のコミュニケーションのなかで、実は個人の根っこを育むなにごとかが行われるのだということがわかる。
いや、自覚は無くとも、わかっているはずなのだ。
父に抱かれて育ち、まだ自他の区別がつかないのが幼少期というもので。
やがてはっきりと自己を確認し、と同時に他者としての父を認識する。そのイニシエーションのような役割のひとつとしてキャッチボールがあるのではないのか。
象徴といってもいい。
近づきすぎては、キャッチボールにならず。
適度に距離をおいて他者として向き合い。
つまりは個人として対面し、
けどそれは決して他人ではなく。
父を父として確認して初めて、自己が形成される。
分離してこそ、結ぶことができるようになる。
ようするに距離が絆を生む。
主人公は、己の心の中に長年飼っていた父と対面し、念願のキャッチボールをする。
それはきっと執着の終着だ。
父を心の檻から解放し、キャッチボールの介在によって自他となり、とどのつまりが初めてそこで父子となるのだ。
かみしめるのは、別れてこその出会いだろう。
日本ならば、
武士は元服で切腹の作法を授かったという。
そうやって死をイメージすることで、生を得たのだ。
死を飼いならすことで、生を自在にする。
まあ、自由と言い換えてもいい。
よくできてるなあと。
またそれはつまり責任をとるという行為でもあるわけで。
以降、責任は親がとるのではなく、自分でとるということになる。
個人になる。
そういう通過儀礼の絶えた今、どうやって個人を確立するのか。
いわゆるニートや引きこもりや、ストーカーや、モンスターペアレントという言葉がわらわらとはびこり始めた現代と、なんらかの関係でもあるのかしらん。
キャッチボール。
あたしゃ少年団も部活もサッカーでしたが、いいと思いますよ。
コミュニケーションのイメージ作りとしては。
うぜえから切っちまえ、てのはないしね。
あれはあれはで依存だろう。
☾☀闇生☆☽