お気に入り本の再読は『ガダラの豚(中島らも)』から『梟の城(司馬遼太郎)』へといって、現在『嗤う伊右衛門(京極夏彦)』に。
京極版『四谷怪談』である。
以下はほんの少しだけ、あたしなりの拙い解釈を云う。
たったそれっぽっちでもネタバレと受けとられる方も、あるいはおられるやもしれぬ。
んが、
言ってしまおう。
有名なお岩さんの、恐ろしくも哀しい物語だ。
それを『ロミオとジュリエット』のごとき苦難の純愛に見立て、その上で、欲望の汚辱に埋もれる一点の光としての恋を、
――それも、ひときわ壮絶な恋を、
神話『パンドラの匣』へと落とし込んでいく、そこが圧巻なのだ。
舌巻いて、
しっぽ巻いて、
きりきり舞いのテンテコ舞いにされるのである。
あたしゃ引きずったわあ。
むろん作者は故意にパンドラを連想させている、
はず。
んが、
それでいてスケスケの蚊帳一枚の絶妙の間合いでギリシア神話とは距離を置き、それを保つことで逆にこの物語をほのかに神話めかしてみせるという。
ばかりか、その刹那に、しれっと筆をおく。
おきやがる。
匣の底に光るものをちらりとさせて。
そのいやらしさったらないし、余韻もただならない。
体面としてかたくなに守られた潔癖こそが実は汚辱で、
一見汚辱と見えるもののなかにこそ、無垢なるなにかが咲いていたりする。
それはそうと、
はじめて読んだときにはそれほど気に留めなかった箇所が、今回は目を引いた。
醜女、お岩。
その民谷家は御家人で、代々お先手組を務める。
しかし戦乱の絶えた江戸にあっては、有り体として門番風情にすぎない。
戦がなければ武士は余るだけなのだ。
が、少しでも彼らを養おうと『御家人の三日勤め』という仕組みが発案される。
一人で済む仕事を、二人三人で担当する。
となれば人があまるから三日に一度は休みになる。
そのぶん一人当たりの扶持米が減らされる。
減るから賄賂を稼ぐか、位の低い者は内職をしてしのぐと。
時代劇などでも侍が傘貼りをしている姿が描かれているが、あんなことなのだろう。
しかし民谷家は門番風情でありながら謹厳実直、質実剛健、品行方正であるからして、それらを忌んで扶持米のみにすがった。
よってお岩の家は貧しかった、と描かれるのだ。
ようはワークシェアである。
ちょうどそんな提案が、うちの経営者からされたところだった。
いったん会社都合で退職して、失業保険をいただきつつ次を探すか。
あるいは甘んじて大幅な減給を受け入れ、代わりに労働時間を短縮してもらい、その空いた時間を活かしてバイトをかけもちするか。
かーかきんきん、かーきんき〜ん♪
バイト探しは週に二回〜♪
なんて唄が流行った時代では、もはやないし。
せっかく就いたバイト先が日祝祭日を定休にしているとしたら、今度のような大型連休のときは、稼げなくてきつそうだねえ。
☾☀闇生☆☽