「投票にいかないというのも、ひとつの意思表示だと思う」太田光。
TBSラジオ『爆笑問題の日曜サンデー』での発言である。
名物記者、武田一顕(かずあき)を相手にしてのものだった。
「だってロクな候補者はいないし、どいつもこいつも日常から遠いところで議論している」
太田はそう続けた。
投票こそは民主主義の根幹を成す絶対条件であるとする武田は、これを受け、
「ならば、白票を投じればいい」
と言下に切り捨てた。
なるほど、投票にいかないというのは消極的な意思表示にすぎない。
最低でも白票をもって、その態度を社会的に表明すべきだと。
そもそも個人の意思を投票に反映することができない国家も、世界には珍しくない。
もっと言えば、そうのたまえるのも民主主義あってのもので。
むろん民主主義それ自体を神棚にまつってはいけない。
無批判に崇拝して、信者になったらなおのことあぶない。
んが、
社会あっての『オラが日常』であることを自覚して、主体的に参加するか、
もしくはおこぼれをもらうように時代の惰性に隷属するのか、少なくとも投票にその姿勢が示されようというものだ。
てか、示していこう。
ロクな候補者がいない、というのは同感である。
どう考えても、同感なのだ。
そうはいえども、同じ考えの人間など存在するわけがなく。
ましてや政治家は権力という両刃の刃を託される存在。
ならばその妖刀、品行方正なだけでは扱えるはずもないだろうに。
学級委員を決めようっていうんじゃないんだからね。
必要悪も腹におさめた豪胆さが不可欠であるだろうから、一癖も二癖もあって当然よ。
問題はどの候補者の、もしくは政党の必要悪がマシかという点。
信仰心の厚い牧師さんだからというだけで、ジャンボ旅客機のパイロットにしてはいかんのである。
こわいのである。
あたしたちゃその乗客なのである。
有権者が政治に興味を持たないのを、政治家のせいにする風潮もあいかわらず根強いね。
日常感覚から程遠いと。
むろん一理あるさ。
けれど、外交や軍事も、日常に直結してはいるのだ。
その程度は想像力を働かせてこちらから興味をもたないことには、またぞろ御機嫌とりをかまされてしまう。
バラ撒きやら、
タレント議員やら、
みょーに耳にやさしいキャッチフレーズでね。
つまりは票の質が、政治家を育てると。
すれば、いわゆる世襲問題なんざ、とるにたらんことのはずじゃないかしらん。
ボンクラには投票しなければいいし。
してしまったと後になって気づいたなら、大いに悔やんで次に活かせばいい。
ましてやこの度の選挙は『政権』にかかわる。
武田は言う。有史以来、政権というものは、クーデターや戦争や革命で流されるおびただしい血を代償として、やっとこさ獲得されてきたのだと。
それを投票というシステムが粛々と、
かつ無血で遂行することを可能にしたのだ。
むろんそれはあくまで理想ではある。
選挙がもとで流される血だってあるのだから。
けれど、それこそが理想と現実との境界線のゲートを。その開き加減を、投票が左右していることの証左かもしれない。
さながら理想という名のガスを燃料にした熱気球のように。
それを現実的な浮力にするために、風を読み、高度に気をくばりながら、バルブを加減する。バルブは開きっぱなしでも、閉めっぱなしでもいかんわけで。
それを託すキャプテンを決めようってんだな。この度は。
だもんで、
少なくとも、
「興味ないんで」と、
血も流さず、そのひと言で投票をスルーしてのけられる、ぬ〜るい現状を見つめなおす機会ではあるかと思うのだが。
どうでしょうか。
かく云うあたしもかつては、投票しないという選択肢に甘えていた時期がある。
それはただただ無関心の方便であるに過ぎず、
良くも悪くもそんな無関心の山が、現状の正体でもあったのだと。
☾☀闇生☆☽
「でもまあ、投票に行かないという自由があっても」
とは同じ番組での爆笑問題、田中の言葉。
議論の収集をつけようとしての、やっつけではある。
が、まがり間違えば、その発言はゆるされない時代だったかもしれない。
それを発言できる今の社会は、代々投票で積み上げて、かろうじて成立しているのだということなのだな。ありがたいことに。
一切の規律や義務や責任がなくなれば、自由は自由ですらなくなる。
「絵画の本質はその額縁にあり」チェスタトン
追記。
むろんお笑い芸人は、童心から疑問をなげかけるのが役割であると、そう踏まえたうえでね、のたまっちまいました。
それはそうとして、
いい機会ですからこんなのはどうでしょ。
長谷川三千子著『民主主義とはなにか』文春新書。
無関心もよろしくないが、民主主義それ自体を絶対視するのはもっと危険なのだ。
文中、敬称略。