そもそものはなし「自称プロサーファー」というのがいただけない。
 哀しすぎる。
 むろん「サーファー」がいただけないのではない。
 人は『自称』に耐えられないものなのだ。
 言わずもがな、例の事件について述べている。
 ちなみにあたくし闇生、実をいえば知る人ぞ知るカリスマラーメン職人である。
 などとぶっこいてみたところで、せいぜいのところ「自称料理人」と呼ばれるのがオチだろうか。
 なんせ「公」はそうとは認めてくれないのだもの。
 いや、実際は当人の主張などそっちのけで「DVD販売店、店長」で片づけられるに違いない。
 それも失業すれば「無職」だろう。


 社会とはそういうものである。


 して、そんなふうにできている。
 でもってそこにこそ個人というものが確立されるのだし、確立されようと人は努めるものなのである。


 個人とはそういうふうにできている。


 ましてや「プロ」をつけたいならば、なおのことそういうことになると。
 もし「自称」で通用するのならば、
 たとえばそう、結婚などははなから意味をなさなくなってしまうだろう。
 同性愛の人たちもあんなにまで結婚にこだわらないだろうし、性同一性障害と言われる人たちの葛藤もなくなるはず。
 けれども、
 くりかえすが人は「自称」に耐えられない。
 独房に囚われても尚「地球はそれでも回っている」とのたまうガリレオのように強くはなれない。
 いや、
 違う。
 ガリレオほどの人だからこそ、命を賭けてでも公認を目指さずにはおれなかったということで。
 それもまた、のちにその主張が認められてこそだろう。
 素材と製法にこだわって徹夜までして作った入魂のラーメンも、客に「まずい」と言われりゃそれまでだ。
 看板に「うまいよっ」と大書しようが、
 頑張ったんです、と一人ひとりに頭を下げようが同じこと。
 駄目なものは駄目。
 欽ちゃんの仮装大賞ではないのだし。
 幼女です。といったところでオッサンはオッサンで、度を越せば狂人とはみなされるが、決して幼女の扱いはされない。
 ばかりかこの場合は「自称」すら付けてもらえない。


 ときて、
 さてドラッグである。


 ドラッグというものは過剰な猜疑心を呼ぶがゆえに、連帯を棲みかとしてそこにうぞうぞと巣食う。
 四六時中やむことのない己の猜疑心に神経をすり潰されるくらいならば、いっそ露見するまえにと、周囲を同じ穴のムジナに引きずり込もうとする。
 いわずもがなカネヅルとしての魅力もそれを手伝う。
 なにより快楽の共犯関係にまさる魔力はほかになく。
 熟知してのち、今度はその力の提供者にでもなれれば優越感も加味されると。
 ましてやわずかな錠剤や粉末で、それはいとも簡単に手に入るわけだ。
 らくちんだ。
 手間と、
 ひまと、
 義理と、
 人情の継続が要る、対人関係の構築なんざ、うぜえうぜえ。
 ショートカット!
 こうして仲間という絆はいとも簡単に共犯関係に変質し、連鎖を生む。
 ぷよぷよのように。
 そこへきてあろうことか「自称プロサーファー」である。
 「自称」などという社会的に宙ぶらりんな存在ならばこそ、よりどころとして連体を欲しがらずにはおれないわけで。
 それがたとえ共犯関係という負のつながりであってもだ。
 それを闇の底の道標に見立てて、ひとまずは安心を得ようとする。


 ついでとして「自称」にからめて言うならば、仮にもプロとして活躍する女優が、タトゥを入れるのも自身の職業への「なんちゃって感」がいなめないのだが。
 こちらはどう考えても「自称女優」とは誰もとらえないでしょ。
 どうしちゃったのよ。
 つらいわ。
 とりわけ時代劇なんかの仕事は、はなから放棄したとしか思えぬ。
 美しくないのだなあ。プロフェッショナルの姿勢として。
 おそらくは迷宮に迷いこんだのだ。彼女も。
 道も方角も失えば、いつしか目的と手段も見失う。
 すれば旅人はひとまずの基点として闇の底に道標をつくろうとする。
 手近な闇の素材でね。
 あのタトゥはあたしにはそんな道標に見えた。
 むろんここではタトゥそのものへの是非ではなく、プロの女優としての姿勢について言っている。


 前にもドラッグについては触れたが、少なくとも人生の目標と手段が定まらないうちは、近づかないほうが無難ぞ。
 自他のためにね。




 ☾☀闇生☆☽

 
 有名人。
 どうも、なんとなく行き詰った感の人が手を出しているような。