体罰と暴力は別物である、だなんで大上段からのたまったばかりにこれだもの。
少年野球の監督が教え子をバットで殴って腕の骨を折ったとか。
いまだにあるのか『ケツバット』って。
にしても、よけようとした生徒の手にバットが当たったというが、骨を砕くほどの力加減ってのは、いやはやどうも。
試合の成績がわるかったのが、そのケツバットの根拠らしい。
となれば、たとえ狙い通りにケツにヒットしたとしても、それではなおさら戦力外にしてしまうだろうに。
成績うんぬんが罰の根拠なら、ふつう腕立て伏せとかさ、グラウンド何周か走らせるとかさ。
ノック増量とか。
素振りとか。
成績回復に役立つメニューにしたほうが、双方にお得だろうて。
あれでは罰ではなく、暴力だ。
ひょっとしたら指導者は感情的になっていたのだろうか。
それはともかく、
昨日の『エンジェルス・イン・アメリカ』の補足として。
アメリカ在住の映画評論家、町山智浩。
彼がラジオで言っていたのを思い出した。
日本の紅白歌合戦をネットで観ていたらしいのだが、その感想がこうである。
「いいなあ、自由で」
仮にも視聴料を徴収する国営放送の、国民的看板番組であるわけよ。あれは。
そこへ、たとえばはるな愛だとかが、平気で出ているという自由。
いや、我々からすればもはやあたりまえなのだが。
米国でもむろんテレビ出演ができないということはないだろうが、あそこまでの国民的大メジャー番組にはまず無理だろうと言うのだな。
なんだろう。スーパーボウル級の、老若男女を問わない絶対的な注目度の番組ということだろうか。
やはりなんだかんだいっても原理主義的な宗教的縛りといおうか、逆に秩序と言おうか、そういう背景がないですから。この日本国は。
正義やら倫理の審判員が一神教の神ではないと。
ゆえに、おおらかだ。
坊さんですら、ソレに励んだ歴史があるんだもの。
なので良くも、そして悪くもだが。
そしてそれは、あくまで他国と比べてということですが。
たとえば歌舞伎のように女形を許容する文化は、何千年待っても、米国には自然発生しなかったと思う。
宝塚歌劇団もそうだろう。
京劇も。
んで、
そういう背景だからこそ、米国では最近その手のテーマを扱ったものが多いのだ。
『ブローバックマウンテン』
『ミルク』
でもってこの『エンジェルス・イン〜』
縛りがきついぶん、その反動も強く、ドラマとして弾けるのでしょう。
んで、
その根源的な違いが作用して、日本ではいまひとつウケないと。
ゆるゆるでは、弾けない。
だから町山氏には、こう返したいところであーる。
「いいだろう、自由で」
補足、終わり。
雨がやんだので、ウォーキング。
復路はジョギングにした。
ときどき近所にお住まいのご老人と顔を合わせる。
朝、挨拶を交わすぐらいなのだが。
そのご自宅の通りに面した廊下をアトリエにしているらしく、キャンバスに向かっている姿をときどき見かける。
今日も、描き上げた風景画を室内に並べて、それらに囲まれるようにして制作に励んでおられた。
油彩だろうか。
寡黙そうな方だったが、そんな趣味をもっていらっしゃるとは。
その精神の豊かさを、ここぞとばかりにうらやもう。
映画『アメリ』に出てくる絵描きのじいさんを思い出したよ。
☾☀闇生☆☽
自由。
といって、無秩序にまで堕落するのはノーサンキュー。
おおらかに、ゆるりと、けど締めるとこ締めてまとまっているのがいいなあ。
うまいうどんのような。
とまあ、なんだか抽象的なこと言ってますが。
それは近所のおじいさんの絵の影響だということで。