たとえば人を殺めた過去を持つ人がいて。
 やむにやまれぬ理由があってのことなのか、あるいは衝動的なものなのか、快楽的、もしくは愉快的なものなのかはここではおく。
 して、法的な処置を経て罪を償ったか、あるいは逃亡中なのかをも。
 そんな彼の目の前で、いましも殺人がおころうとしている。
 はたして彼には、それを制止し、諌めることはできるのか。
「俺は人を殺したことがあるのだから、そんな権利はない」
 などと言って、静観するのは愚かだろう。
 むろん、それを制止したからといって過去のあやまちまでが償われるとは限らない。
 しかし、そんな損得はかなぐりすてて、止めるべきではないのか。
 いや、そんな過去をもつ者だからこそ、そうするべきなのだ。


 更に喩えを続ける。
 では、これがレイプならどうだろう。
 レイプに、やむにやまれぬ理由というのは考えにくい。
 (直接的、または間接的、自他への復讐によるものや異常性欲については、おく。おきっ放しにする。)
 が、目の前のレイプを黙認するほど人間性を失っては、レイプ犯でいるより卑劣とは言えないか。


 もう一歩突っ込む。
 ではそのレイプで生まれた子は、その父を、そしてその行為を憎むことができるのか。
 自分をこの世に誕生させるきっかけとなった、その暴力を。

 
 そんなことを考えたのは、かつて友人と戦後日本の対米姿勢について論じ合ったときだった。
 いや、正確にはとりとめもなく駄弁っていただけだったが。
 古い話である。
 熱くなってつい、そんな無粋な喩えを口にしてしまったのである。
 あの戦争への是非はいろいろあるだろうが、原爆二発でこじあけられた戦後の日本は、レイプで生まれた子ではなかったのかと。今より更にケツの青かった闇生は、当時そう思ったのである。
 生を謳歌できるのは『彼』のおかげでもあると。
 そんな認識だから、対米追従。つまりこの国はレイプ犯を憎めない子なのではないかと。
 もちろんそれは大変な誤りで、戦後の繁栄は、戦前から脈々と受け継いできたある種のスピリット(勤勉だとかの)による形を変えたリベンジであって、自らをレイプ犯の子と認め諦めることそれ自体が、本当の敗戦なのだと気づくに至るのだが。
 伊坂幸太郎の『重力ピエロ』(新潮社)を読みながら、闇生は終始そのことを考えていた。



 憎めるのか、どうかを。 
 断わっておくが、この物語と先の戦争やら戦後やらの問題はほとんど関係しない。
 あたしの勝手な連想である。
 物語は連続放火事件の現場に残された謎のメッセージを推進力に、ぐんぐん進んでいく。
 読みやすく、リズムも軽妙で、おもしろい。
 会話も小洒落ている。
 だから、上記したようなことを連想させる本来重いテーマであるにもかかわらず、飄々としていた。
 それでこそ売れる作家なのだろう。
 うん。
 文句はない。
 あえてあるとするならば、読み終えて、それでおしまいというところか。
 欲を言えば、もうひとつ踏み込んでほしかった気がする。
 とはいっても、
 がっつり書けば、重くて売れないし。
 さらりと書けば、再読されずにブックオフ行き。
 このあたりのバランスが、至難の業なのだろうなあ。
 



 ☾☀闇生☆☽