未だあたしの住む界隈では、野菜の無人販売をちらほらと見かける。
ほら、教卓ぐらいの木の机に、その朝採れた野菜が並べてられてあるアレよ。
そこにはただ『100円』とだけ手書きされたダンボールの切れ端が添えられて。
お代は備え付けのジュースの空き缶だとか、雨樋のプラスチック製パイプに入れると。
だいたいがそれに簡単な屋根がついて、路肩や、農家の軒先あたりにしつらえてあったりするものだ。
あたしゃこの風情が好きでね。
などと年寄りぶってしまいますが。
とどのつまりが道行く人々の良心に支えられてるわけでしょ、この風情ってもんは。
ところが、こんなところにも不況のあおりがあるのか、最近はちと事情が違ってきているようなのだ。
素朴に『100円』だけで済んでいたポップに、いろいろと言葉が付け足されていく。
曰く、
ち
ゃ
ん
と
お
代
ぶ
ん
を
入
れ
て
下
さ
い
どうよ。
たった一行のブルースである。
何よりその墨痕あざやかな縦書きに、鼻の奥をつうんと刺されるではないか。
他にもこんなのがある。
『見ているぞ』。
『野菜を傷つけないでください』
果ては『監視カメラ作動中』なんてのまで。
こうなると撤去したほうがいいのではないのかとまで思ってしまうわい。
そこまで苛々してやっても、ねえ。
あたしがよく利用させてもらうとこのは農家の門の下。
住居から門までは少し離れていて、それを庭の飛び石が点々とつないでいる。
門の屋根は藤つるに覆われて、季節になると軒にさがった紫色の花の房が、風に揺れてたいへんよろしいことになるというロケーションだ。
先日もそこでチンゲン菜をゲットした。
なんせお得で、しかも数が限られている。
だから、敏い利用者は朝から競ってその無人店情報を収集するし、捕獲に余念がない。
となれば、あたしなんぞがいいブツに巡り合えるなんてことは、稀だ。
運がいい。
にんまりとしてパイプのなかに50円玉をふたつ入れ、背負っていたデイバッグの中に戦利品を収納しようとした。
がそのときだった。やにわに住居のほうに気配がしたのは。
見ると腰の曲がったおばあさんが、杖を付きつきこっちへやってくる。
えんやこらせっせのどっこいせ。
なんかちょっと慌てたようすなので見ていると、どうやら無人販売の集金の時間らしかった。
パイプの底にたまった小銭を取り出している。
そういえばこないだも同じだったような気がする。
買った直後にばあさんが駆けてきたのだ。
いやいや、
なんかいつも買った直後に駆けてくるような…。
そのあと銀行で用事をすませ、帰りにそこを通りかかってみるとちょうど子連れの主婦が自転車を停めて品定めをしている。あたしゃ信号を待つフリをして何気なく観察したのだな。
すると案の定だ。
主婦が長ネギを選び、お代をパイプに投入する。
ちゃりんっ。
鳴ると同時に玄関が開いてばあさん登場だ。
なるほど。ちゃりん、で出てくるその趣向自体は、まるで歌舞伎の花道である。
が、そこはやはりばあさんだ。
えんやこらせっせの…。
志村けんのコントかと。
あいーん、すんのかと。
ということは、ははん。ことさら鳴るように作られたあの長い長いパイプは、ばあさんが見張るための仕掛けなのだ。
ばあさんは日がな一日、玄関の中で耳をそばだてているのに違いない。
で、「ちゃりん」を聞き取るや、すわとばかりに杖をとって駆け出す仕組みと。
でもって無くなった野菜の数と、小銭の数をただちに照合する。
して、また引き返して、待機。
なんということか。
もとは無人の、ほったらかしの販売所だった。
それがいまやこの一触即発の有様になろうとは。
ばあさんをそこまでさせた利用者の悪意については、この際あえて置こう。
といって、
ならば無人はやめて、ばあさんが売り子になればいいじゃんか、などと考えてはいけない。
なぜって、その心無い利用者への憎悪が、
怨恨が、
そして正義感が、
おそらくはこのばあさんのボケ防止につながっているに違いないという事実。
その皮肉。
不断の心の緊張と、
小銭を聞き取る聴覚と、
駆け出す身体能力と、
硬貨の真贋を見極める観察力。
そして現金出納スキル。
憎悪が老人を若返らせる。
とは言いすぎか。
いや、言い直そう。
古き良き正義感なのだ。
そしてきっとばあさんはその下手人を叱ってやりたいのである。
言わずもがなだが、叱ると怒るはまるで違うわけで。
それは先日も触れた体罰と暴力の違いにも似ているわけで。
走れ、ばあさんっ。
☾☀闇生☆☽