合理主義vs神秘主義の構図で『もののけ姫』を語る。
 …なーんてのは、少しも斬新な視点ではない。
 と、のっけからえらそーにかましておく。
 森を切り開いて鉄をつくるタタラ場と、その森に棲まう神々という対立関係でしたね。
 これは少し前に取り沙汰された『文明と野蛮』という、まったくもって野蛮な視点に置き換えることもできるかもしれない。
 とくればだ、
「我は光なり」と木をなぎ払い、
 人々の虚妄の母胎であるところの森の闇を退治していったのが、西洋の中世だと。
 平たく言えばそれは、森に住まなくてはならない賎業者を差別・排除した魔女狩りにつながり。
 オオカミを童話の悪役に仕立てたのも、それが森の闇の象徴にほかならないからで。
 それは同時に木炭を産み、燃料となって文明を支えることになると。
 とはいえ、
 西洋文明を語ろうというのではないのね。ここでは。
 そんな難しいこと、書けないし。


 司馬遼太郎の作品に『妖怪』という異色作があって。
 時代は応仁の乱前夜だ。
 跳梁跋扈をかます幻術・妖術使いを扱った作品で、ここには歴史的英雄や快男児は登場しない。
 でだ、
 この作品での司馬の視点の面白さが、この時代の『燃料』なんですな。
 そこに触れたかった。
 当時、灯明に使われたのは荏胡麻(えごま)油だったそうで。
 その照度の極めて低い灯のもと、
 人々は集い、
 語らい、
 闇のなかに想像力を遊ばせては、それを畏れていた。
 たとえば怪談をする場合、照明を落としたほうが聴き手の想像力が鋭敏になるのは説明するまでもないことである。
 一度はやったことあるでしょ。顔を下から懐中電灯で照らしてさ。
 そんな環境と、津々浦々の風土があいまって土地の妖怪やもののけ、ひいては神々を生んできたと。
 ところが、やがてそれが菜種油にとってかわるのですな。
 照度は増して、人々の夜から闇が少し遠のくわけ。
 すると、小説の前半では縦横無尽の幻術を駆使していた男が、これを境に力を失ってしまうのである。
 明るさが闇をはらい、
 妄想がぐっと遠のいて、
 代わって科学がじわりと歩み寄るわけだ。
 だもんでそれら妖術は、闇に育まれた強力な想像力に支えられていたというわけ。
 つまり闇こそは、最大最良の暗示の培養液なのよ。
 そして、そんな闇と引き換えに、中世の幕が開くと。


 んなわけで、この小説は後半になってさびしく失速してしまうことに。
 なにをかくそう菜種油が、
 そしてその明るさが文字どおりに白けさせるの。
 欲情にかられて闇の中でまぐわっていた男女が、突然蛍光灯を点けられたように。
 なんだかなあと。
 思うに『色香』なんていうフェロモンぬくぬくな言葉も、闇あってのものかと。
 だもんで、人によってはこの小説、失敗作であるという。
 それくらい闇にとらわれた前半が魅力的だということになるのだが。


 ともかく司馬はそんな視点を持った作家だ。
 忍術ものを書けば、自然、それは闇の妖しさを念頭に構築するに違いなく。
 たとえ忍術・幻術がまっ昼間に行われようとも、闇に養われてきた人々の敏感な想像力あってこその術として。そんな認識で綴っていたに違いない。
 その代表作に『梟の城』がある。
 傑作だ。
 ところがこれの映画版(監督、篠田正浩)は、そこのところをどうやら見過ごしているようで、つらい。
 てか、痛い。
 夜半に潜入した城の中が明るく白けて、そのなかを黒装束の忍びが活動するという。なんだかドリフのコントを思わせる絵になってしまっている。
 明かりの下じゃかえって目立つっての。あの格好は。
 そこへいくと白土三平の『サスケ』は、忍術を科学的に解説しようとする姿勢があっておもしろいよ。
 たとえば、自分の影をクナイで地面に縫い付けられると動けなくなるという術。
 これもしっかりと暗示のなせるわざとして描いていた。


 最近の忍術ものといったら、漫画ならやっぱNARUTOか。
 この世界では以上のような理屈っぽいことなんか言いっこなしだ。
 印を結べば、術は発動するし。
 なぜといわれても、そういうものだし。
 理屈なんか、ない。
 それらをフィクションのためのお約束事として了解せんことには、痛快な少年漫画の体裁は味わえないのだし。おとなげないと言われちゃう。
 やだわ。
 忍者が忍者丸出しの服装なのも、
 はたまた人口のほとんどが忍者では衣食住を支える経済はどうなっとんのか、などとは考えない考えない。
 なんつったって、そういう世界なのだっ。
 とまあ、そんな具合に白昼堂々と暗示にかけてくるのがこの漫画なのであーる。
 な。
 んで、
 なんじゃかんじゃいって、あたしゃ全巻持っているのだわ。
 うん。


 作中に出てくる術に『火遁』というのがある。
 印を結んで唱えればクチから火炎放射器のごとくに巨大な火の球を噴き出す術だ。
 これが司馬作品ならどうか。


 闇夜。尾行に気づいて主人公は木陰に身を潜ませる。
 ほどなく尾行者が追いついてきたところへ声をかける。
「こっちゃおいで」
 尾行者からは木陰の闇に潜む主人公が見えない。
 そこで主人公は火のついた火縄をとりだす。
 木陰の闇にぽっ、と火種が浮かぶ。
「銃か」
 と身構える追っ手に向かって「煙草さ」と。
 事実、そんな匂いが漂っている。
 やがて追っ手はその火種から見当をつけて主人公に斬り込むのだが、空振りに。
 火縄は煙草の葉をからめて小枝に引っ掛けてあるだけなのだ。
 主人公はそれを見据えて返り討ちに。
 これをさして『火遁』と。
 (『花咲ける上方武士道』中公文庫での一場面)
 

 さすがにこっちのほうがリアルだが、少年漫画でこれをやると、地味だわな。


 でね、
 それでも漫画は漫画で愉しめる。
 だが、アニメとなるといけない。
 こっちは当然カラーでしょ。
 あら。そんなに明るいとこで闘っていたのね、と我に返って白けてしまうのだ。
 本来、闇のなかで対峙されるべき映画であっても、昨今はソフト化されることを念頭において制作されてしまう。つまり明るい部屋のなかで鑑賞されるという前提でだ。
 だから今後、実写を含めた動画が魅力的な闇を描くのは困難なのかもしれない。
 いや、闇とまではいえなくとも陰影についてはどうだ。
 つまり、照明の拙さについてはカラー以降の日本映画は指弾されてきた歴史があるわけで。


 科学だか合理だかで見え透いてしまったかの日常。
 ともすれば、世界は身も蓋もない。
 でもそんな現実にも、いやそうだからこそ陰影が要る。
 して、その陰影が現実をも明確にする、はず。
 せめて、
 想像力が存分に羽を伸ばせる魅力的な闇を、どうかもっと。







 ☾☀闇生☆☽



 しらっちゃけた世の中じゃ、何も見えぬ。
 見えたつもりになれるから、かえって始末がわるいのじゃ。