平成十四年、熊本の小学校でおきた『体罰』の問題。
 教師が児童の胸元をつかんで叱責した行為が体罰かどうかをめぐって訴訟となっていたやつ。
 それを体罰と認定し損害賠償を命じた一審、二審の判決を覆して、最高裁はこれを「体罰ではない」と判決しましたね。
 したんですよ。


 これなんですけどね。
 思うに、またぞろ体罰と暴力を一緒くたにしている感触があるのだな。
 これは例の戸塚ヨットスクールの戸塚氏が主張し続けていることなんだけれど。
 (ここではあのヨットスクールの件について是非はしない)

 
『体・罰』
  と
『暴・力』


 それは似て非なるものだろうに。
 罰とは、常に罪に対して執行されるもの。
 日常レベルならば『非』に対してだ。
 でしょ?
 となれば、それを見極める冷静な判断力と、執行の技術が強いられるわけ。
 とどのつまりがおかした罪相応の力の加減が、コントロールされていなければならないと。
 酔っ払って公共の場で裸踊りをしたタレントに、死刑を執行するのではなく。
 また、よってたかって晒しもんにして冷笑するのでも、
 あるいはまるきり情にゆだねてお咎め無しにするのでもなく。
 それにぴったり見合ったペナルティーを、だ。


 だからこそ、その権力をあずかるものには責任が大なのだし。
 という建前を質にとって、生徒やその保護者側は、教師に信頼をよせる形をとると。
 礼ですな。
 これみよがしに。
 どーかひとつと。
 んで、
 その信頼がまた責任の底上げをして、権力の暴走を抑止すると。
 つまりは大切な子供を預かっていると再確認されて。
 教師に、よりプレッシャーを与えるぞと。
 そんな責任と権力を背景に、教師は逡巡し、罰を見極めるのだ。
 いや、べきなのだ。
 

 そう、体罰とは、制御不能なまでに『暴』走させた『力』ではないのですな。
 キレてんじゃない。
 だもんで体罰か否かなんて問答は、はたして、どうなんでしょう。
 体罰=悪。でいいんでしょうか。
 なんだか、戦争=悪。の安直な構図と似てやしないか。


 私的な感情で、嫌なものはことごとく悪とみなすやっつけ感。

 
 おそらくは、学校がすでに学校ではなくなってしまっていることにも原因があると思うのだわ。
 給食費は払っているのだから「いただきます」を言わされるおぼえはない。なんていうクレームがあったそうですが。
 奇跡のような森羅万象のハーモニーが育む五穀豊穣への感謝なんざ、もうねえんだな。
 学校をサービス業かなんかとして考えているのだろう。
 なるほど、
 ファミレスの店員に胸ぐらをつかまれて叱責されたと解釈すれば、訴えたくもなるのかもしれない。
 まったくもって残念なことだが。

 
 教師。
 本来、ここまで責任が重大であるにもかかわらず、世間一般のように能力給ではないという時点で、職業として尊敬にあたいすると。そう闇生は思うのだよ。
 自分にはできんことを押し付けてんだもの。我々は。
 彼らはもっと敬意をもたれるべきでは。
 なんせ頑張りが反映されないのだからね。
 そんなのど返しでやってんだっつの。彼らは。
 警察もそうだが、損得勘定の外側だからこそ意義がある仕事だろうに。
 ところが、
 彼らのヨスガでもあった世間からの敬意が、年々薄れていってますよね。
 子供はカネ払って預けて、ほったらかし。
 そんな職場環境では『人物』は育ちにくいし、だいいち集まってこないのではないだろうか。
 カネも誇りもないとこですぜ。
 で、なにかというと訴訟だものね。
「こう見えて、あたしらの商売は馬鹿にはやれないんで。けど、利口ならなおやらない」
 下手すると、そんな噺家のマクラみたいなことになってしまうぞ。

 
 そうそう、
 わたくしごとでいえば、小学校四年。
 その担任の教師がまさに体罰教師だった。
 べちんべちんビンタもらった。
 けれど、すげえ人気があった。
 大好きだった。
 あるときあることで叱られて、男子が廊下に整列させられた。
 で、片っ端からビンタをされたわけなのだが。
 その瞬間、ひとりびびって首をひっこめた奴がいたのだ。
 だもんで先生の手はそいつの耳を直撃。
 さいわい鼓膜は無事だったが、先生はそれを心配しつつ、さらに説教をたれたのであーる。
 それはビンタの受け方についてだ。
 俺は顔のどこにヒットすれば安全に、しかも良い音のたつビンタができるかを計算してやっている。だから、よけるなと。信頼しろと。
 あたしなんぞは反抗心をむき出しにして、先生の手に頬をぶつけていったクチだから、可愛くない生徒だったに違いない。
 が、好きだった。
 その頃、その先生は独身で。
 アパートの部屋はいつも鍵がかかっていなくて、生徒は勝手に出入りして。
 いたずらしたり、
 掃除をしてあげたり。

  
 他のクラスにも厳しい先生がいたなぁ。
 その先生はビンタではなくて、両方のコメカミをぐりぐりと。
 それでもって吊上げるのだ。
 その先生も、実に人気があった。
 思い出せば、それはまえもって信頼関係が出来ていたのかもしれない。
 いっぱい叱られたけど、笑顔しか思い浮かばねーもの。
 でもってアフターケアもあった。
 

 体罰と暴力。
 あたしなんぞはエロDVD屋であるからして、何よりSMで考えるのが一番明解なのだな。
 あれもまた形の様々な信頼あってのものでしてね。
 でなけりゃただのリンチでございましょ?
 SMはリンチじゃございませんのよ。
 うまい責め手は、プレイに根拠をあたえてきちんと『罰』に昇華する。
 なんでそんなことをされるのか、と。
 ときどきその辺を勘違いした人の声を聞きますが。
 男蹴ったりすんのってたのしそー、なんて。
 そんな了見でSM倶楽部の戸を叩いて、M男の客に逆切れされて泣かされるという、コントみたいなことがあるとか。













 ないとか。

 
 ☾☀闇生☆☽

 
 とかなんとか書いてたら、今度はどこぞの校長が、生徒に書かせた反省文に拇印をさせていたとか。
 はて、そこまで問題になるようなことなのでしょうか。これ。
 現場の荒廃を知らんのだろうな。きっと。
 学校を、社会に出るまえの訓練期間だと考えれば、シュミレーションとして成り立っているとは思います。
 たとえば自転車盗めば、指紋をとられて、謝罪もさせられます。
 えへへ、では赦されない。
 黒澤明にいわせれば、子役を使うコツは「子ども扱いしないこと」だそうです。
 一人前として扱えば、一人前になろうとするものだと。
 これは代表作『七人の侍』のセリフにも活かされているのです。