志ん朝はいいねえ。
聞きこめば、聞きこむほど、良さがわかってくる。
なによりカラっと明るいんだ。
それでいてそれは決して弛緩したものではなく。
どこかできりっと締めているという。
あのね、
たとえばマイルズ・デイビスという天才ジャズプレーヤーがいて。
彼の音は、あたしにとって完成しているのね。
とくにマラソン・セッションといわれるあたりの名盤は。
無駄も、冗長さも毛ほどもないの。
そこへ行くと、セロニアス・モンクだ。
この人のは常に未完成の感触があんのよ。
むろんピアニストとしての彼のスタイルは、そもそも完成しようとしていないわけだから、好き嫌いが大きく分かれる。
オスカー・ピーターソンが立て板に水の饒舌さなら、モンクのは訥弁だ。
つっかえつっかえ、しゃべるのに、妙に心を打つという。
そして彼の場合は、マイルスと違って、作曲家としての名前のほうがゆるぎない。
その曲だって、不安定を遊ぶところがあるくらい。
んで、
どちらが好きかっていうと、あたしゃ圧倒的にモンクなんですな。
マイルズは、非の打ちどころがなくて、いま一歩好きになれないの。
同じようにロック・ギターだとジェフ・ベック。
この人のは、若い頃、あまり好きになれなかった。
というのも、隙がないのね。
完璧なの。
ひとつも文句が無い。
で、
熱情的なフレーズも、感情を入れずに技術だけでこなしているように、感じた。
要は、冷たいと。
そこが、あたしにとっての壁になっていた。
だもんで文句がないのに、なぜか繰り返し聴こうとは思わない。
けど、これは年々、よくなってくるよ。
今ではそこに凄味を感じるようになった。
彼の場合、
感情と技術との距離の置き方が、クラッシックの演奏家に近いのかもしれない。
なんでもカラヤンが言ったのだそうな。
指揮者とオーケストラが熱狂している演奏は、一流ではない。
指揮者が冷静で、オーケストラが熱狂しているのも、まだ違う。
指揮者とオーケストラが冷静で、観客が熱狂しているのが、一流だと。
ベックを聴いていると、その言葉を思い出す。
でね、
話がそれそうだが。
桂文楽という名人は、マイルズ・デイビスのような完璧芸なのね。
文句なしにうまいんだろうけれど、好きにはなれない。
そこへ行くと古今亭志ん生。
彼は、さながらモンクだ。
そもそもジャズという範疇の中にいることを、自覚してないのじゃないのかと。
それくらい、超然としている。
そこがなによりの、ジャズなんだけど。
で、この志ん生の息子である志ん朝。
継承困難な親父の芸を敬遠して、桂文楽系の完成芸を目指したのだそうな。
たしかに、そっちなのだろう。
なのに、なぜかあたしは好きだね。
うまいし。
壊しては再生する談志も好きだが、磨き上げていく志ん朝もいいと。
だんだんわかってきた。
そのミソは、ぱあっと咲いたようなあの明るさなのだろう。
それでいて開きっぱなしではないという。
絶妙だ。
とりわけ、あの声。
なんの噺が聞きたいのという前に、まず志ん朝の声が聞きたくなる。
ずとーんと凹んでいるとき、
突如として静寂が怖くなって、人の声が聞きたくなる。
そういうときのテレビは、手前勝手にはしゃいでる感があって、げんなりするし。
なんだかヒトゴト感がただならないわけで。
一時期はダウンタウンのトークをビデったのを、流しっぱなしにしていた。
けれど、
最近の、ガキ使。トークやらないものね。
控えている理由は、トーク番組がはやって、当たり前になっているからでしょう。
かつては異彩をはなっていたもの。
かつ、技術的にも、センス的にも高度だったし。
帰りの電車でi-pod。あれこれと彷徨ったが、やっぱ落語に落ち着くんだ。
んで、志ん朝に。
そこで気づいたのである。
我が凹みは、ネタを欲しがっているのではないと。
志ん朝の声が、聞きたいのだと。
あの喉は、奇蹟だと。
☾☀闇生☆☽
よく、ホームレスっぽい人が、大音量のラジオをかけっぱなしにして歩いているのに、遭遇する。
ケータイラジオでも、やっぱ流しっぱなしに。
あれは情報云々より、声なんだ。
声。
声が聞きたい。
さてと今夜は眠れるかも。
なんじゃかんじゃいっても、酒を絶っているのだ。
イェイ。自制心である。
そして、志ん朝を聞きながら目を閉じていれば、きっと眠れる。