いくら甘党だからって、砂糖をがつがつむさぼるアホはない。
おもろいが、それはない。
てか、こわい。
ましてや、だからって友を山盛りの砂糖でもてなすのも、悪意なのか、ギャグなのか、はたまた前衛アートか呪術かと。
いらぬ誤解を生みかねない。
相手が客人ならなおさらだ。
ならば、
いくら肉が好きだからって、生きている牛にかじりつく奴もいなければ、ぶった切った肉塊をそのまま手づかみで客にふるまうのも、いないわけであり。
それなりの美観と食べやすさをもとに切って、
たたいて、
塩・コショウをして、
もんだり焼いたりした挙句に、
清潔な皿の上に、他の具材とあわせてほどよく盛りつける。
決して豪華である必要はなく、
なおかつ手がこんでいなくても、食べる人の気持ちになってそれなりにまとめるわけだ。
仮に刺身やサラダのようにシンプルの極致のようなのであっても、そこは変わらないっしょ。
そこでだ、
昨今なにかと尊重される人間の『本音』。
あたしゃこれを、そんな生な具材のようなものではないかと、捉えているのよ。
またぞろ、中学生のケータイ依存が問題になっているとかで。
彼らは睡眠時間を削ってまでして、ケータイでメールなどをしているというのだ。
東京都大田区の、とある中学教諭がこの現状に疑問を抱いた。
そして、生徒たちにアンケートをしたのだそうな。(1/27付産経新聞)
ケータイが無くなるとどうなるか、という問いにはこんな反応が。
「本音が言えなくなる」
「死ぬか精神がおかしくなる」
「世界が終る」
うしろの二つは、子供らしい『ダダ』と、言っていい。
なんせケータイに関するアンケートを教諭側が行うのだ。
それ自体に『ケータイ批判』という、結論ありきの企画であることがシースルーだもの。
生徒はそれを敏感に察するわけで。
となれば、反抗期の彼らのこと。『本音』のNo!を誇張しないわけがない。
それも大人たちが最もデリケートに扱う『生死』と『精神』に訴えて。
今や当たり前になった『超○○』の『超』と、ノリは同じだろう。感情の強調。誇張。
なぜって、精神や世界を、たとえおぼろげにでも認識するには、絶対的に時間がいるのだから。
少なくとも中学生には、それに向き合うだけの時間も環境も、まだもてないはず。
てか、生まれて十年やそこいらで、精神や世界がわかってたまるかっ、である。
もっともっと広大で複雑だぞ、世界は。
とてものこと一生や二生では、知りつくせんわい。
もとよりケータイにその時間を邪魔されていては。
ね。
問題はここに出た『本音』云々の部分にあると思うのよ。
というのも、ケータイを持たない生徒たちが、ケータイ依存者にむけた呼びかけにこんなのがあるのだ。
「携帯でないと言えない本音なんてない。本音は直接話してこそ伝わる」
ケータイに依存する者も、しない者も、とどのつまりは本音をありがたがるのだな。
砂糖の山を。
ぶった切っただけの肉塊を。
生の本音だけで『世界』に通用するのなら、誰も苦労はしない。
政治家は問題発言を垂れ流しし。
営業マンはふんぞり返って家にこもっていればよいと。
むろん、なにも嘘を付けと云うんじゃない。
んが、
その肉塊の料理や盛り付けこそがミソだし。受け手への優しさだ。
さばいたり、
骨を抜いたり、
アクとったり、
くさみをとったり、
腸を除いて、煮たり焼いたり、
味をつけて、漬けたり、干したり。
むろん、素材を殺さずにね。
そこをおろそかにしたり、しくじったのが、社会や人間関係でつまずくのだな。
このあたしみたいにさ。
だもんだから、言いながら自分の耳が痛いのだが。
だからこそわかるぞ。そういうものだと。
あえて言うのなら、アキバの事件だって、土浦の事件だって、あれは彼らなりの本音の吐き出し方なのである。
だから本音にだって良し悪しがあるのよ。
いや、おおざっぱに言ってしまえば、犯罪のほとんどがむき出しの本音だ。
血まみれのまま手掴みで突き出された肉塊だ。
これからは、自分に嘘をついて嫌々やらかす犯罪なんて、少なくなる一方だろう。
だから本音そのものを神聖化しないこったと。
本音の料理の手腕を、磨こうぜと。
苦手な具材も、生臭いのも、その腕次第だ。
そして、それには直に、なおかついろんな人に接するのが、近道でござるよと。
そういう方向で、リアルを勧めたらどうでしょうか。
先生がた。
考えてみれば、音楽や映画や漫画といった表現の世界はみな、その積み重ねでできているわけで。
「好き」
「ウザイ」
「生きろ」
「死ね」
といった生の肉塊のままでは伝わらない何かを、模索した成果である。
☾☀闇生☆☽
とかなんとか言ったところで、まず大人たちが依存してますものね。
だから上から何を言っても、説得力がないでしょう。
街の其処彼処で、日々目に入りますもの。
ケータイ弄りながら自転車乗っているのや、
混雑時の駅の階段を、メール打ちながら歩いてるの、
あぶないし、邪魔だし。
みっともないし。
追伸。
書き終えて、思い出した。
小林秀雄著『考えるヒント』文春文庫に『言葉』という項がある。
ここでは、本居宣長の歌論について考察しているのだが。
宣長が「歌は一種の礼だ」とするくだりがあって。
礼は人々の実情を導くその導き方であって、内容を欠いた知的形式ではなかった、と。
以下、引用。
「喪を哭するに礼があるとは、形式を守って泣けというのではない。
秩序なく泣いては、人と悲しみを分かつ事が出来ない、
人に悲しみをよく感じて貰う事ができないからだ。
人は悲しみのうちにいて、喜びを求める事は出来ないが、
悲しみをととのえる事は出来る。
悲しみのうちにあって、悲しみを救う工夫が礼である、
即ち一種の歌である。」
たとえば自由の代名詞でもあるjazz。
そこでのインプロビゼーションにも、約束事がある。
ここではそれを礼といっていいだろう。
soulを思うままに吐き出すだけで通じるのなら、楽器もコードもリズムも要らず、そこで一匹の野獣となって叫んでいればいい。
言葉も、
つまりはそこに託される想いも、本音も、そういうこったと。
ととのえてこそ、通じるよ。