『マルコヴィッチの穴』という映画をご存知だろうか。
名優ジョン・マルコヴィッチの内部に通じるという、摩訶不思議のトンネルがあって。
そこに入れば数分間だけ実在のマルコヴィッチの視点になれる、というのだ。
言い換えれば、マルコヴィッチを『着』てしまえると。
映画のなかにはレズビアンのカップルが登場する。
かたや夫のある身ながら、かっちょいい女に口説かれてソレに目覚めてしまうという。
そのうえでこの穴の存在を知ってしまったものだから、さあ大変。
人妻はマルコヴィッチに抱かれに、そしてパートナーは穴を使ってマルコヴィッチの内部にと。
それでもって男の肉体を介在に、つながってしまおうという、それはそれはいやらしいプレイを試みるのであーる。
それはともかく。
スターであり、
文芸作品からエンタテイメントまでをこなす名優マルコヴィッチが見ている世界と、一般の我々の見ている世界とは、きっと違うのだろうなぁと。
そりゃそうだろうと言われちゃあ、それまでっすわ。
けれどね、
自分に向けられる人々の表情が違うと、まるで世界は変わるのだろうと思ったね。
ああ、思った。
むろん、良くも悪くもさ。
世界一のコメディアンとは、世界でもっともたくさんの笑顔を見た人を言う。…なんて言うでしょ?
ならばイケメン君の見ている世界というのも、そういう視点で考えれば、あたくしのような糸くず野郎が見ている風景とは、まるで違うはずなのだ。
異性の顔の開き具合を、きっと山ほど見てるだろうし。
開かせてもいる。
ひと昔まえ、原宿の竹下通りには、中東の某地域の方々がたむろしていた。
当時、彼らにはいろいろとよからぬ噂もあったが、それはここでは置こう。
通りを闊歩する我らがヤマトナデシコたちに、彼らは声を掛けまくっておったのであーる。
でだ、
問題はその声を掛けられた瞬間の日本女性の表情ね。
日本男児からのナンパには、はなから鉄壁の無表情を決め込んでいるというのに、相手が外国人となるとパッと笑うのだな。彼女たちは。
出会いからしてまず、笑顔なんだ。
なんですか、それはと。
大方の女がそうだったと、当時、親しくしてくれていた奴がこぼしてましたよ。
ええ。
ちょっと目を離したすきに、自分のカノジョがそんな風に咲いていたと。
見たこともない素敵な笑顔だったと。
で、観察すると、ほかもみんなそうだったと。
それはやっかみというものでは、とも思ったが。
逆に、日本男児に声をかけられる外国人女性の、そのお顔の閉じ方を目撃したりすると。
ううむ、
なんと言おうか。
この国はほんとに戦争に負けたのだなと。
ゲバゲバ。
オスとして追う側の半生だった人が、
女装して一転、
追われる側になって世界が変わる、なんていうのもそういうことだろうか。
どういうことだろうか。
難しい顔をしていた同性どもが鼻の下をありったけのばして、間抜けヅラでかまってくるということだろうか。
ならば世界は陰から陽に、ぺろんと裏返っちまうに違いない。
…なーんてことを、考えていたのですよ。
床屋でね。
目を閉じて。
ふて腐れた古田新太似の店主に、この間抜けヅラを剃ってもらいながら。
この人、なんでいつも怒ってんのかと。
そんな疑問を抱いたら、とたんに連想が始まっちゃって。
てか、怒った古田が刃物もってんだから、そんな妄想にでも逃げなきゃやってらんないでしょう。
ホトケごころの鬼となりて、明鏡止水を心掛けた。
したら、いろいろと思い当たるのですな。
どーしてこんなにも世間には無愛想な店員さんが多いのかと。
おやおや、えらそーに何を言うかと。
お前はナニさまだ、と。
すまん。
自分で突っ込んでおくから赦しておくれ。
かく云うこの闇生も店員のはしくれなのだ。
しかも決して愛想のいい部類には入らない。
だもんだから贅沢は言わないよ。
ファーストフード店なみの、これぞ笑顔でござい、てなポジティヴの風圧で抱きしめてくれとまでは思わん。
そっけなくとも一向に構わないっす。
てか、ほっといてくれた方が楽チンなのだから。
んが、中にはどうみても怒ってる人がいるのよ。
よく利用するカウンター式の丼物の店なんかは、大概そうだ。
女子のバイトも、熟女のパートも、みぃんな怒ってる。
ズボンに浮き出たパンツのラインからして、すでに怒ってる。
吊りあがった眉毛のごとく。
それでもまあ、客っつったって、あたくし程度のやつでございますから。
ささっと食い終われば、ごちそうさまと。そんな関係でございますから。
でもって値段が値段でございますからね。
ましてや店員としての苛立ちのアレコレも、わからないわけじゃないわけでー。
そこは大人として、水に流すのですな。
頑張れよと。
そこへいくと、困るのはなんてったってこの床屋なのですな。
一定時間、至近距離で刃物を介して二人きりなわけだから、ひじょーに困るぞと。
でもね、
今回はふと思った。
相手が俺だからみんな怒ってるのかなと。
これもまたあたしならではの、景色なのかなと。
俺がマルコヴィッチなら、まるで違っただろうと。
あああ、顔が脱ぎたい。
安部公房の長編に『他人の顔』というのがある。
特殊メイクで他人になりすまし、自分の妻を誘惑するお話である。
はたして我が妻は、この作り物の他人に陥落するのかどうかという。
この『他人の顔』も、
そして『マルコヴィッチの穴』も、
人間の好奇心の根幹にある『覗き』を扱っている。
他人になりたい、というのは、自分の知らない世界を覗きたいということだろう。
その欲望の根は、どうやら深いようで。
映画『ストレンジデイズ』の世界では、人の記憶が闇でやりとりされていた。
記憶が商品になっているのだ。
言うまでもなく、これもまた『覗き』。
しかもそれは記憶の体感までができるシステムで。
おっさんが、シャワーを浴びる少女の記憶を体験したりしている。
おや、
ならば、あんなエロいことも、こんな残酷なことも擬似体験できるのねと、あなた思いましたね。
んめっ。
なかでも感動的なのが、これだった。
車椅子の男が、波を蹴って渚を走る人の記憶を味わうシーン。
彼はその足で、うしなった波の感触を愛おしむのだ。
さて、
そこからの景色は、どんな世界ですか。
☾☀闇生☆☽